2013年10月31日木曜日

2013年10月31日

以下、2013114日、15日に掲載された僕も朝日新聞Webronzaの論考のコピーです。既に時効なので朝日新聞の許可を得てここにコピーします。


「学者」を絶滅危惧種から救え
 このままいくと50年後には日本の大学から「学者」はほとんど消滅し、「先生」しか大学にはいなくなる。新年早々、暗い話で申し訳ないが、この予想は今のままではかなりの確率で的中すると筆者は自信をもっている。何故なら、筆者が日本を離れて米国に行った1985年当時と2009年に日本に戻ってきてからを比べると、日本の大学において、学問を専門とする人たちが激減していると見受けられるからである。逆に、職務内容的には小・中・高の先生と大差ない大学教員が激増しているように筆者は観察している。日本では「学者」は絶滅危惧種になっているのである。以下に、帰国して3年余りの体験と観察から引き出された考察を述べる。続けて、日本の大学から学者が消滅してしまわないようにするための提言もしよう。
 先ずは、「学者」の定義をしておく必要がある。広辞林によると「1学問にすぐれた人2学問を専門にする人」とある。英語でいうと ”Scholar” である。真の学者は「学問にすぐれ、かつ学問を専門にする人」であろう。いつの時代にも学問にすぐれたひとはある一定の割合で存在する。しかし、今の時代には、たとえ学問にすぐれた人も学問を専門とすることができなくなっている、あるいは学問も専門としなくなったと思う。なぜか?大きく2つの理由があると筆者は考える。「時間」と「資質」の問題である。


 今の時代は、大学教員が学問にさける時間が激減している。つまり、学問をする時間が他のことにさかれてしまっている。この「学問以外のこと」を以下に列挙する。

【学生の生活指導】
 大学教員が学生に学問を教授するのは当然の職務であるが、現在は多くの大学で教員が学生の「生活指導」に相当の時間を費やしている。例えば中部大学のホームページには、「大学生活で困っていること、例えば、学費、生活費の問題、奨学金の申込み、健康状態・家庭・恋愛等の問題をはじめアルバイトや下宿生活の問題、友人関係のトラブル等何でも指導教授に相談してください」とある。
 大学教授が学生の「恋愛の問題」まで相談にのっていたのでは、学問をする時間がなくて当然である(個人的には、学生の恋愛問題の解決ができる大学教授はほとんど皆無であるし、大学教授なんかに相談すると恋愛問題が逆に悪化すること間違いないと思っている)。
 筆者のまわりでも、教授が自分の研究室の学生のさまざまな悩みを辛抱強く聞いてあげ、必要ならば学生のカウンセラーとの面談に同伴するということを日常的に耳にする。また、多くの大学で、学生の学業、生活面での問題を、学生の親御さんと面談し(いわゆる、小・中・高の「三者面談」である)解決する努力が大学教員に求められている。
 さまざまな大学の教員たちの話を聞いてみると、日本の大学(および大学院)では、5〜10人に1人の割合で学生が精神的に病んでしまうらしい。これは、大きな社会問題であり、解決すべき問題ではあるのだが、その問題を大学教授などの教員が直接かかわり、カウンセラーなどの専門家と一緒に解決していくことが求められているのである。当然、これらは簡単には解決できず、多くの時間をとられる。結果として学問をする時間が限られてしまう。

営業・宣伝活動
 今日の大学には「社会に開かれた大学」が要求されている。これは、とても良いことであり、大学も社会の一部なので、「開かれた大学」は大学の義務であり当然であると筆者も考える。また、少子化にともない、各大学は、それぞれの存続のために学生の「呼び込み」に必死である。これらが、日本特有の「やり過ぎ文化」「俺も私も文化」と相乗し、どこの大学もこぞって縁日を彷彿させる「オープンキャンパス」なるものを毎年数回施行している。そこでは、大学内における研究成果発表のポスターが屋台のように並び、そこで学生、教員が必死に「呼び込み」を行っている。まるで、縁日、お祭り、学園祭である。オープンキャンパス以外にも、大学教員は学生集めのため、入試説明会などにかり出される(入試説明会のために地方への出張もありえる)。同時に、学生の大学(大学院)受験に関する様々な相談にも親身にのることが教員に要求されている。
 また、研究成果が論文、学会で発表されるごとに、大学で記者会見が行われ、その研究をした教員がかり出され、報道陣に説明することが求められる。これには、教員側も必死である。米国からきた筆者は驚いたが、それには理由があることが最近判明した。それは、大学教員が国から頂いている研究費の毎年の報告書に、「成果」として、論文発表・特許申請以外に「新聞、テレビなどのメディアでの報道」をリストアップされることが求められているのである。筆者は、自分自身の研究報告書を国に提出する段階になって、このことを初めて目にし、自分の目を疑った。このようなことをしているから、去年の「iPS/森口事件」のようなことがおこるのだと納得した。日本では、大学職員・研究者自身が、研究費獲得のため、論文・学会発表と同様に、新聞、テレビなどのメディアで報道されるように必死なのである。もちろん、報道のための原稿、資料作りなどは大学教員自身が行うのである。とても時間のとられる作業である。



 以上が「時間」の問題だ。「資質」の問題というのは、大学教員自身が学問をしなくなったことを指す。

 今日の大学教員は、目先の成果のみにとらわれ、知名度の高い学術雑誌に論文を発表し、研究費を獲得してくることに集中しすぎていると筆者は懸念している。もちろん、それはそれで大切で重要なことなのだが、それらのみに集中し、学問の造詣を深めるということを疎かにしている傾向が、今日の大学教員は強すぎる。そのような大学教員をみて育つ学生が「学者」に育つ訳がない。また、そのような「学問をしなくなった大学教員」は学生に知識や小手先のスキルを教えることはできても、学問を教授する経験や能力はなくなってきているのが現状である。

 これは、日本の教育全体とも深く関わる問題である。小・中・高では受験勉強が常に念頭におかれて教育がなされており、大学・大学院では就職が念頭におかれて教育がなされている。よって、日本の大学では、小・中・高と同様に、表面的な知識や小手先のスキルを主に学生に教えているように筆者は観察している。これでは、人生で一度も学問と真正面から向き合うことなく学生が社会に出てしまう。   (続く)


続:「学者」を絶滅危惧種から救え

前稿では、日本の「学者」がなぜ消滅寸前となっているのか、筆者の体験と観察をもとに分析した。本稿では、それぞれの問題を解決するための提言を述べよう。

まず、「時間」の問題の解決にはどうしたら良いか。 
1.大学、大学院には、そこでの勉学、研究の教授を受ける準備のできている学生のみを入学させる。筆者の観察によると、そもそも、準備ができていない学生が多く入学している。そのような学生にとっては、大学、大学院での勉学、研究は「苦痛」以外のなにものでもない。もし、大学あるいは大学院レベルの教授を受ける準備のできていない学生をどうしても入学させる必要があるのであれば、学生個々の能力、準備レベルにあわせてクラス分けをおこなったうえで、それぞれのクラスに適した教員、教授方法を実施すべきであろう。これらを統一的に(日本流に言うと「平等に」)教育することは不可能であるし、学生にとっても良くないことは自明である。

2.今日の日本で流行している「手取り足取り」を大学レベルではやめる。もちろん、これは難しい問題であり、大学入学まで、学校また家庭でずっと手取り足取りで教育されてきた学生を、大学で突然突き放して「これからは何事も自分の責任でやりなさい」といってもできる訳はなく、学生もそのせいで精神的に病んでしまうかもしれない。したがって、子供の時から「段階的に」自立させていく必要がある。そのためには、小・中・高、また家庭の協力も必要であり、今すぐ解決できる問題ではない。しかし、今すぐ処方箋を出すべき問題である。

3.最近では、大学にも学生の精神面をケアするための専門家が常駐(あるいは非常勤)している例が多い。しかし、実際には大学教員が個人的に学生の精神面のケアをしているのが普通である。それぞれの大学によって事情は違うだろうが、基本的には、学生の精神面のケアは、その点に関しては素人の大学教員が関わるべきではないと筆者は思う。精神面の問題は非常に難しく、専門的知識と経験が必要となる。そのような、知識と経験をもった専門のカウンセラーに任せるべきである。

4.縁日、お祭り化しているオープンキャンパスは見直すべきである。社会に開かれた大学を目指すなら、大学内の教育、研究成果を社会に伝えることに長けた専門家を何人か常勤で大学が雇用し、そのような専門家たちを中心に、大学の成果を社会に還元する方法をとるべきであると考える。その方が効率的であり有効だろう。

5.研究成果の記者発表資料であるが、これも、大学教員ではなく、大学がメディアに流す資料をつくる専門の職員を雇用し、その方々に一切を任せればよい。その場合、それらの職員には、修士号あるいは博士号をもち、専門知識があり、研究の中身をきちんと理解でき、すぐれた発表資料を作成できる能力をもっていることが要求される。

6.研究費の毎年の報告書に「新聞、テレビなどのメディアでの報道」をリストアップさせる国の方式は今すぐ廃止すべきである。論文発表、特許申請のみで十分である。研究成果と新聞、テレビなどのメディアでの報道にはなんら相関関係は存在しない。

続いて「資質」の問題の解決へ向けた提言を述べる。

1.大学教員に学問を学ばせる。学問を教授するには、教授する本人が、それぞれの専門分野の歴史的背景や学問の歴史的発展を深く把握し、これからの発展に関する深い洞察力を持ち合わせている必要がある。教員自身が、それぞれの専門分野の歴史的背景、発展の歴史などをしっかり学ぶことを義務とするべきである。そのための教員用のカリキュラムを組み、学ぶための時間を教員が持てるようにする。

2.大学、大学院の学生には、必ずそれぞれの学問分野を歴史的背景から学ばせる。表面的な知識や小手先のスキルを学びたい学生はそれらを直接身につけられる専門学校に任せればよい。もちろん、大学、大学院のなかでも、表面的な知識や小手先のスキルを中心に教えるカリキュラムを組むところがあってもよいと思うし、それはそれで社会にとって大切なことである。しかし、現在の日本の問題は、ほとんど全ての大学、大学院が、「専門学校化」しているということである。「学問を教授する大学・大学院」と「即実践で役に立つ知識とスキルを学ばせる実践大学・大学院」といった棲み分けはできないものだろうか?

 以上、解決すべき問題は山積みであるが、もし、日本が大学における「学者」を失いたくないのであれば、これらは先送りしてはならない重要な問題である。