2010年8月31日火曜日

2010年8月30日

先週バイオサイエンスのサマーキャンプで淡路島に行っている間、一日目と二日目の夕食は、予め配られたミール券を使わず、ホテルに入っている、 中華(一日目)とお寿司屋(二日目)に自腹をきっていった(ラボの学生さんたちも連れていった - もちろん奢った)。なぜかというと、去年参加したときに、ミール券での夕食があまりにもまずくて貧弱だったからだ。今年は、一日目の夕食に中華で1人 3000円のお任せ料理を注文した。ミール券での同じ中華レストランでの夕食は1500円相当なので、金額でいうと二倍の値段だけど、量・味ともに10倍 くらいあった。また、二日目にいったお寿司屋さんでは、1人3700円のお寿司セットを注文した。ミール券だと、イタリアン、中華、または洋食のお店で 1500円相当の料理なので、二倍を少し超える値段でお寿司を食べたわけだが、味は100倍美味しかったし、量もお腹いっぱいになる位あった。ここのお寿 司は、メチャ美味しかった。 こう考えると、1500円のミール券はNAISTがぼったくられていると思う。1500円払って500円くらいの価値の料理しか提供されていな いと思う。来年、ミール券で、もし同じような料理なら、自分勝手に食べたほうが、美味しくてお腹いっぱいになるので、自腹をきって、また来年も食べようと 思う。食事に関しては、NAISTがホテルともう一度交渉したほうがいいかと思う。

2010年8月30日月曜日

2010年8月29日

先週はNAISTバイオサイエンスのサマーキャンプ(Retreatみたいなもの)に2泊3日で行って、多くの学生さん、ポスドク、助教のトー ク、ポスターのプレゼンを聞いた。中々楽しかった。アメリカでも多くの大学院でRetreatが毎年ある。アメリカのそれと比べて二つ気になったことがあ るので、ここに書いておく。 アメリカの学生さんやポスドクのプロジェクトはもっともっと様々な研究、ユニークでアット驚くアイデアに基づく研究が多いように思う。 NAISTのバイオの場合、動物、植物、微生物、システムバイオロジ-、構造生物学、生物医学といった多岐にわたる分野があるけど、根本にある考え方やア イデアがかなり画一的だと思った。ほとんどのプロジェクトが(もちろんいくつかの例外はある)同じような思考の仕方に基づいているような気がした。もっ と、自由に、個々の自分らしい、研究をしてもいいのにと思った。
もうひとつは、多くの学生さんたち、助教の方々が、「ただ研究をしている」といった印象をもった。それぞれの研究が「何のための研究」で、「何 を明らかにしようとしているのか」、それを明らかにした暁には、「その分野の何がどれくらいアドバンスするのか」をしっかり考えて研究したほうがいいと思 う。もちろん、研究にはSerendipity はつきものなので一概にはいえないけど。。。。。
ところで、先日書いた、広中平祐と小澤征爾の対談をまとめた本だけど、僕が今考えているようなことをすでに35年前に、2人とも思っていたんだと、とても驚いた。それらについて、少しづつ、ここにも書いていこうと思う。

2010年8月27日金曜日

2010年8月26日

日本学術会議がようやく、科学技術を科学・技術と区別するように勧告した。とてもいいことだ。ようやく、という感じ。僕は30年以上前から、この「科学技術」ということばが大嫌いだった。僕は科学者であって、技術者ではない。僕は学者であって、科学技術者ではない。これで、日本のサイエンス教育も学者を育てる教育にも力を注いでくれるといいのだけど。技術者も必要だけど、学者無しには、技術者は宝の持ち腐れになってしまう。学者教育も技術者教育も両方しっかりできる国になってほしい。

2010年8月25日水曜日

2010年8月24日

New York の今年の夏は猛暑で凄く暑かったらしいが、近頃は涼しくなったらしい。朝・晩は少し肌寒いらしい。今年は2月の終わりにNew York に行ったきり、アメリカには行ってない。今のところ暫くNew Yorkに行く予定はないけど、たぶん今年の終わり頃に、一度行く予定が入りそう。はやくNew Yorkに行って、美味しいベーグルが食べたい。

2010年8月24日火曜日

2010年8月23日

僕らの世代からは「自分勝手でワンマンなやり手」の人間が世の中に出てきた。それはそれで、そのような人間が会社のトップに立って皆を引っ張っていくというスタイルで会社を大きくしていき、日本企業を世界のトップにしていった。 でも、今の若い人達(10代~20代)を見ていると、自分勝手でワンマンなやり手の人間はいない。だから、僕らの世代の人達からみると、リーダーシップのないひ弱な世代に見えるらしい。でも、僕がみるに、この若い世代はそのようなリーダ-はいないけど、皆で相手のことやまわりに対して気遣いをしながら、まとまってなにかを一緒にやると いうスキルは僕らの世代の人間よりかなり自然にうまく出来ているように思う。だから、僕はこの若い世代の人達は、この良いところをフルに活用して、自分勝 手でワンマンなやり手のリーダーによる組織づくりではなく、まったく違う体型の組織づくりで、世の中をよくしていって欲しい。

2010年8月23日月曜日

2010年8月22日

ひょんなきっかけで「やわらかな心をもつ」という、小澤征爾と広中平祐の対談をまとめた昭和59年に発行された本を読んでいる。結構色々と共感する部分があって、読んでて気分がいい。 僕は中学2年のころ、広中平祐さんがフィールズ賞をとったあと文化勲章をとられて、テレビや新聞にもよく出られるようになり、僕はとても興味を もって広中平祐さんのことを読んだ。僕は、すぐ人に影響をうけるので、そのころ「高校への数学」という雑誌を購読して数学の問題を解いていたけど、こんな んじゃダメだと思って、「大学への数学」という雑誌を購読し始めた。ちょうどその時、一年間イタリアに住んでいたため、広島学院を休学していた、ひとつ上 のY君が同じクラスに入ってきた。彼の両親は2人とも京大数学科出身の数学の大学教授だった(両親がイタリアで数学の研究をする為に一年間イタリアに家族 で住んでいた)。Y君も両親の影響で、数学がとても好きでよくできた。それで、僕ととても気があって、2人で「大学への数学」じゃ物足りないなという事 で、Y君の両親がもっていた、大学で使う数学の分厚い本(本の名前は覚えてないけど、統計のなんかの理論のような教科書だったと思う)を2人で勉強したの を覚えている。いつもY君の家で勉強会をやっていたので、わからないところは、お父さんとかお母さんが丁寧に教えてくれていた(大学教授なのに、なぜか両 親ともいつも家にいた。。。)。また、ちょうど同じ時期に、アメリカから広島の原爆研究所(ABC)に研究に来られていた家族の子供のMark という同年代の子と知り合った。Mark のお父さんもたまたま統計学が専門の著名な数学者でUniversity of Rochester で教授をされていた。そんなわけで、Mark の家に遊びに行く度に大学レベルの統計学を教えて貰った。
そんな訳で中学生の時にかなり数学にはまってしまったので、高校にあがる頃にはその辺の数学専攻の大学生と同じくらいの実力はあったと思う。中 学・高校の時には学校の数学の試験はアホらしかったので、Y君と試験問題を解くだけでなく、どちらがはやく数学の試験問題を全て解けるか、を競争してい た。だいたい50分くらいの試験問題は15分くらいで僕らは解いていたと思う。しかし、Y君はいつも100点をとっていたのだけど、僕は必ず凡ミスをし て、いつも90点とか95点だった。数学の先生は、いつも僕に「佐藤は数学メチャできるけど、絶対100点は取れんよね」といっていた。そのおかげで、ク ラスのなかでは「100点絶対取れない、佐藤」といわれていた。しかし、僕は実はそういわれるのは、結構内心喜んでいた。僕は100点取れる人間はあまり 好きではない(つまり完璧な人間)。そのころからそう思っていた。だから、メチャできるけど、凡ミスで95点しか取れないというのは、結構僕らしくて良い な、と自分自身喜んでいた。まあ、タダの負け惜しみというヒトもいるけど。でも、これが僕なので。。。。ご勘弁を(笑)。

2010年8月21日土曜日

2010年8月20日

まだ、暑いけど、秋が近づいていることは確か。朝、走っていても、セミの泣き声が最近は一時期よりかなり静かになってきた。朝6時頃の気温も、ほんのちょっとだけど、以前より低く感じる。 New York だと8月半ば過ぎになると、バケーションから人々が帰って来て、いろんな人達から、どこでどんなバケーションをとった、とかいう土産話を聞くようになる。 また、学校も8月終わりから始まるので、2~3ヶ月の夏休みを終えて、子供たちが学校へ行く準備をはじめる。大学新入生たちが寮やアパートに入るのもこの ころだ。とにかく、長い夏休みを終えて、リフレッシュして、皆それぞれ新しいことを9月からはじめる準備をし始めるのが、8月半ば過ぎ頃。
僕は、今は日本にいるけど、やはり8月半ば過ぎになると、「気分一新がんばるぞ」という気持ちになる。そんな時期にNAISTでは2泊3日のバ イオサイエンスSummer Camp(Retreatみたいなもの)がある。時期が悪すぎ。個人的には8月の半ば過ぎ~終わりという、心気一転させようとしているときに、大学の行事 をいれてもらいたくない。出来れば6月とか7月のはじめにして貰って、一年の締めくくりという様な行事にしてほしい。。。。

2010年8月20日金曜日

2010年8月19日

就職難といわれている。今日の朝のニュースでは大企業への就職はニーズに対して新卒応募者が平均2倍以上あるけど、中小(またはそれ以下)企業 では半分しかないという、ミスマッチがおこっている。これは、多くの就職希望者が安定思考で、大企業への就職を望んでいるということらしい。しかし、これ から先50年間で世界の経済状況はかなり変わってくる。特に、日本の大企業といわれている会社の体質はこれから10年ほどでかなり変わってくることは確か だと思う。「大企業への就職は安定した人生」という古い考えはなくなるはず。大企業の雇用体系もがらりと変わってくると思う。大企業に就職しても、ダメ 男、ダメ子ちゃんたちは、ドンドン首をきられていくだろう。そうしないと、企業としての存続が危ぶまれる世の中だ。だから、できる者にとっては、大企業は いいと思う。ドンドン、大きな仕事をまかされて、会社の世界レベルでの発展に寄与できるチャンスがワンサカある。しかし、これらのチャンスが巡ってくる社 員はほんの一握りだと思う。それ以外の社員は、「ただの労働力」「使い棄て」だと思う。大きな組織とはそういうやり方をして行かないと、会社として存続し て行けない。逆に、中小企業だと、小さい分、ダメ男、ダメ子ちゃんたちも、ひとりひとり手取り足取り、育てて貰える可能性が高いと思う。 まあ、色々書いたけど、やはり自分の夢、自分の生きがい、などを就職云々いう前に、先ず考えたほうがいいと思う。それらを考えた上で、就職等を 含めた、もっと大きな意味での人生設計をしたほうが、人生楽しいと思う。こんなことを言っても、理想論だとか、現実味がない、とか言われるのは百も承知。 なので、ただの独り言だと思って貰って結構だ。
ちなみに、僕はこのかた一度も、就職活動をした事がない。というか、他人に「仕事をさせて貰っている」と思ったことは無い。僕はいつも「自分でしたい仕事をしている」と思っている。

2010年8月19日木曜日

2010年8月18日

日本に帰って来て思うことの1つに、「日本は蚊が多い」というのがある。地下鉄に乗っていても、蚊に刺されるし、スーパーのレジで待ってても蚊 に刺される。コンビニでも蚊に刺される。ニューヨークではThe Central Parkとか木や草の多いところに行くと、もちろん蚊がいるけど、地下鉄や、スーパーなんかで蚊にさされた覚えはない。ニューヨークなんて、めちゃくちゃ 古い町だし、地下鉄だって、日本なんかに比べたら数十倍汚いし、でも蚊は少ない(あるいは、いない)。何故だろう?ニューヨークは、日本より、もっとガン ガンに下水などの消毒をおこなっているのだろうか?それとも、日本の高い湿度と関係あるのだろうか?ちょっと仮説をたてて、調べてみようと思う。 まあ、いい年して、いまだにTシャツに半ズボンで通勤している僕も問題ではあるが。。。。(蚊が狙わない訳がない。。。。)。でも、ニューヨークでもTシャツに半ズボンだったけど、地下鉄やスーパーでさされたことはない。。。。

2010年8月18日水曜日

2010年8月17日

今日でNAISTの一斉夏季休業は終わり。今日はすでに大学の食堂も結構人が増えていて、お昼時も賑やかだった。それにしても、この暑さなんとかしてほしい。僕は朝6時くらいから、走っているのだけど、6時の時点でかなり暑い。昔、テキサスに住んでいた頃を思い出す。 それにしても、今年の夏もバケーションをとらなかった。来年の夏こそは、どこかのんびりと涼しいところにバケーションで行こうと思う。のんびりとなると、やはり海外かな。。。。日本はどこに行っても人だらけだし。。。。
明日から、少し自分の生活パターンを変える予定。どうなるかわからないけど、ちょっと試してみる。おって、状況をここで紹介するつもり。

2010年8月17日火曜日

2010年8月16日

NAISTはまだ夏季一斉休業中。17日まで休み。先日書いたように、僕にはまったく関係ないので、いつも通りラボに行く。いつも通り、学生さ んたちとのデーターミーティングもある。結局、今年のお盆も広島の実家には帰らなかった。大阪から広島まで二時間かからないで帰れるのだけど、中々行けて ない。日本に帰ってきたので、もう少し頻繁に親の顔をみに帰るべきだと思うのだが、そのための時間をつくろうという積極的な意思が動かない。両親には申し 訳ない限りだ。
ところで、前にも書いたように、マンハッタンにあるマンションを売却したので、今はアメリカに家がない。円高でもある。というわけで、アメリカ (たぶんマンハッタン)に小さなマンションをセカンドハウスとして買おうかな、と結構真剣に考えている。マンハッタンの結構いい場所だと(例えばThe Central Park のまわりとか)、60㎡くらいの小さなStudio でも、最低5000万円くらいはすると思う。色んな理由から、ローンは組みたくないので、現金購入となるわけなので、今の経済状況からして、5000万円 はきつい感じ。来年なら可能かも。円高が来年まで続いてくれればいいのだけど。。。。

2010年8月14日土曜日

2010年8月13日

でも、僕には関係ないし、仕事。ラボにも、ほとんどの学生さんは来ている。
僕らがやってる研究という仕事は、皆好きでやっているので、いくら研究してもまったく苦でない。色々やりたくないこともやらなきゃいけない時もあるけど、それも好きな研究を好きなだけやるため、と思えば全然苦にならない。
今日から17日まで大学は夏季一斉休業。世の中もお盆休み。
今日も一日たのしんじゃおっと。

2010年8月12日木曜日

2010年8月11日

日本の多くのラボでは助教の先生方が、学生の直接の指導、ラボ全体の諸々の雑用、をやっている為、自分の研究に100%専念出来ない場合が多い。このシステムだと、教授にとってはいいけど、助教の先生たちの独立した研究者としての将来は暗い。 僕のラボではこのようなシステムはとっていない。基本的に僕のラボでは助教の先生には自分の研究に専念して貰い、ドンドン研究成果を出して、独 立型准教、教授、研究所のPIとして、自分のラボを運営出来るポジションを「実力」で獲得して、独立した研究者としての将来に羽ばたいていって貰いたいと 考えている。
そういうわけで、僕のラボでは各学生さんは助教の先生について研究をするといったことは行わない。わたしのところの大学院生さんたちは各々自分 で独立したプロジェクトを遂行する。もちろん、その過程で、研究手法を助教の先生、または私から習ったり、研究に関するアドバイスを助教や私から貰いなが ら研究を進めて行く。だから、僕のラボの学生さんたちには、かなりの独立精神とやる気、勉強すること、が要求される。これらは、とても大変だけど、そのご 褒美として、「自分の頭で考える力」「大人としての人間力」「国際社会に出て十分通じる能力」をみにつけることが出来る。
また、僕のラボでは来年1月からラボマネージャーを雇う。ラボマネージャーはラボ全体の研究・事務関連の運営を任される。だから、他のラボでは助教の先生たちがやっている雑用といわれているもののほとんどは、このラボマネージャーが行う。
このようなラボの運営を行うことで、僕は助教の先生たちには研究に専念して貰う。そのことで、助教の先生たちの独立した研究者としての将来をサ ポートすることになるし、またラボ全体の研究力、ラボ全体の知的レベルの向上、ひいてはラボ全体としての競争的外部研究費獲得力の向上につながると信じて いる。

2010年8月11日水曜日

2010年8月10日

最近、つくづく自分の勉強不足を痛感する。今までの殻を打ち破るような素晴らしい研究成果をあげるには、自分の基礎学力(すなわち土台)が足り なくなってきた感がある。土台のない(または弱い)ところに、その場限りで色々と積み上げていっても、すぐに崩れてしまうので、先ずはしっかりした土台を つくる必要がある。僕はこの47年間、この土台をつくって、その上に色々と積み上げて研究成果を出して来た。しかし、今その基礎の土台が、あまりにも色々 なものを積み上げてきたおかげで、いっぱいいっぱいになってきたように感じる。 ここらで、時間をかけて、土台をさらに広げるか、もっと別の場所に新しい土台をこつこつとつくりあげていこうかと思う。そうすれば、今までの殻を打ち破るような素晴らしい研究成果が将来出てくると思う。

2010年8月10日火曜日

2010年8月9日

この週末の土曜日に淀川で恒例の花火大会があった。僕は、出張から、ちょうど帰ってくる時で、大阪駅は浴衣姿の男女でごったがえしていた。そこ で思ったのだけど、浴衣の似合う、若い男女が昔に比べて減ってきたように思う。特に若い男の浴衣の似合わないといったら酷いように思う。何故だかわからな い。ただ、僕自身が歳をとってしまっただけなのだろうか? 日本人さも失い、国際性もない、これからの日本はかなり変わって行くのだろう。世界の中で孤立とか、無視されたり、にならないといいけど。。。。

2010年8月9日月曜日

2010年8月8日

この週末は医学系の研究会があった。とても良い話しを沢山聞いた。とても勉強になったし、楽しかった。今回はラボからも数人の学生さんたちをつれていった。学生さんたちも、とても勉強になったみたいで、良かった。 また、僕が一年以上、高校一年生の時から、研究指導している地元の高校生さんが、夏休みを利用して、アメリカの僕の知り合いのラボで10日間、 研究の経験するために、この週末、アメリカに飛び立った。そのアメリカの知り合いの家にホームステイして、毎日大学のラボに通うことになっている。今日の 朝、その知り合いから、高校生さんが無事アメリカに到着したと連絡があった。よかった。この夏に一回り大きくなって、日本に帰って来ることだろう。

2010年8月7日土曜日

2010年8月6日

今日は8月6日。広島に午前8時15分、原爆がアメリカ軍により投下された日。僕は生まれは山口県萩市だけど、3才から高校を卒業するまでずっ と広島市に住んでいた。だから、核問題、戦争、平和ということが僕の頭にずっとある。色々考えてみると、僕のひとりの人間としての根本には常に「広島、原 爆、戦争、平和」といったことがキーワードになっていると思う。 以下、僕が、広島学院高校を卒業するときに卒業文集に書いたエッセイ。17才の時(30年前)に書いたものだ。
昭和56年広島学院第20期生卒業文集より「平和へ向けて」


2010年8月5日
今日は、あまり頭がはたらいてない。こういう時は、やらなきゃいけない単純作業を片付けて、頭がはたらいている時に、単純作業をしないでいいようにするのがベスト。

2010年8月5日木曜日

2010年8月4日

僕は、大学(筑波大学)の学部4年生の時に、最初の論文を書いて(初稿を自分で英語で書いて、Figures も自分でつくって、先生のところへもっていった)、First Authorで発表した。その時に、大学院、またその後の研究人生、をアメリカで送るために、アメリカ人に覚えて貰いやすい名前という事で、Thomas N. Sato (Tom Sato)という名で、論文を出した。それ以来、ずっとThomas N. Satoで論文を出してきた。しかも英語がほとんどネイティブと変わらないぐらい流暢なので(cockyな発言)、日本人、アメリカ人、ヨーロッパ人ら多 くの研究者たちから、僕は日系アメリカ人だと思われていた。という訳で、僕のラボには日本人の学生やポスドクは歴史的に少なかった(アメリカで研究してい る日本人がPIのラボには日本人のポスドクが多い)。三つめの理由。
このような状況だから、僕のラボから羽ばたいていく、学生、ポスドクは、ほとんどが日本人ではなく、日本以外(特にアメリカやヨーロッパ)のと ころで、その後活躍する。だから、僕は自分が育てた学生、ポスドクが、将来日本のリーダーになり、日本を世界一の国(いろんな意味で)にしていくことに貢 献する、といったシナリオに飢えていた。
だから、日本に帰って来た。日本のラボだと、日本人の学生、日本人のポスドクを沢山育てて、僕のラボを巣立った日本人の若い人たちが、将来日本 のリーダーとして、世界中で活躍する、といった僕の夢が叶う可能性が高くなるのでは、と思った。だから、アメリカでのいろんな贅沢な研究生活や誘惑を棄て て、日本に帰って来た。

2010年8月4日水曜日

2010年8月3日

日本に帰って来た、もうひとつ理由。
僕はアメリカ永住権(グリーンカード)を持っているので、一生アメリカにいようと思えば、いれるわけだ。でも、アメリカ市民になって、アメリカに忠誠を尽 くすことはしたくないし、出来ないし、アメリカに貢献しようなんて、まったく思ってない。アメリカが戦争に加わって、アメリカの国のために尽くす、なんて 出来ない。アメリカがいくら沢山オリンピックで金メダルをとっても、全然うれしくない。日本が金メダルをとると、とてもうれしい。このような気持ちの僕に アメリカ市民になる資格はない。
アメリカに尽くしたくなく、アメリカ市民になりたくない、僕みたいなものが、研究しやすいというだけで、アメリカに永住するのは、アメリカの国民に失礼だし、アメリカ人たちも、僕みたいなのがアメリカにずっと寄生虫のように住むのは快く思わないと思う。
外国生まれだけど、日本が好きで、日本に貢献しようと思って、日本国籍になって、日本にずっとすんでいる人たちは、日本国民だって大歓迎だ。で も、日本なんか大嫌いで、日本なんかに貢献するつもりがまったくないけど、お金稼ぎのため、仕事だけのため、に日本に永住されるのは、いやだと思う。これ と、同じことである。
このような、理由から、アメリカに貢献しようと思ってないけど、研究だけのためにアメリカに永住するというのは、ひとりの人間として、よくないことだと思い、それなら、アメリカに永住すべきでない、すなわち、日本に帰るべきだと、僕は決心して日本に帰ってきたわけだ。
もうひとつの理由は。。。。。(続く

2010年8月3日火曜日

2010年8月2日

日本では、年齢差別がある。普通にある。例えば、履歴書に生年月日を書く。人事の選考で、普通に年齢に関して論議される。日本では、学校、職 場、地域、ありとあらゆるところで、先輩、後輩の関係というのが、尊ばれる。一才違いでも、先輩は先輩、後輩は後輩だ。このような、カルチャーだと、やは り皆、あらゆる局面で、自分と関わる人(人達)の年齢が気になる。このメンタリティ-が少なからず、日本での年齢差別に繋がっているのかも知れない。 僕は子供の頃から、この先輩、後輩、また、年齢差別が、とてもいやだった。その幾つかの例:
  • 僕は中学、高校と6年間、広島学院のバスケット部に入っていた。中2から高校3年まで、スターティングメンバーで活躍していて、インター ハイにもいったし、広島県の国体選手にも高校2年生、3年生と選ばれた。だから、中2から高3まで、チームの中でもバスケの実力は先輩の多くの人たちより 上だった。ということで、下級生だからといって、自分より下手くそな先輩にはまったく先輩としての尊敬の念ははらっていなかった。僕より下手なベンチウ オーマーの先輩に遠征の時に、下級生が持つはずのボールをもって貰ったりしていた。今だと、このような態度はとらないけど、十代とはそんなもんなのかも知 れない。でも、とにかく、ただ自分より年上という理由だけで、実力が下の先輩にヘイコラする事はできなかった。
  • 僕は小学校の頃から研究者になりたかった。だから、もちろん大学院に行くこともすでにその頃決めていた。でも、日本で大学院に行きたくな かったし、日本で研究者にはなりたくなかった。その理由の1つは、当時では、いくら実力があっても、大学は絶対4年間、大学院は博士をとるまで5年間は勤 め無ければならなかった。僕はこのように、実力とはまったく関係ないこと、つまり年齢で僕の将来を縛られることは許せなかった。もうひとつの理由は、博士 号をとって、ポスドクをしたあと、例えば大学で研究をするとなった時、日本の大学では、いくら実績、業績、実力があっても、年功序列で、若くして教授には なかなかなれないと、当時聞いていた。そんなくだらないことで、僕の研究人生を棒にふりたくないと、子供ながらに思って、日本で研究などしたくないと思っ た。
僕自身、このようなことは今でもいやなのだけど、ではなぜ日本に帰って来たか?「そんなにいやなら、アメリカにいれば」と多くの人は思われると 思う。(実際、僕は自分が一生アメリカで研究しようと思えば出来るわけだし。。。。 終身雇用のTenureもとってるし、研究費だって、以前書いたように、沢山あったわけだし。。。。。給料だって今の約3倍だったわけだし。。。。。どう 考えても、  それらを棄てて日本に帰って来る理由が見当たらないわけだ。。。。)
その1つの理由は、僕と同じような考えや思いをもっている人たちがドンドン海外に出ていってしまっては、日本はいっこうに変わらないわけだ。だ から、僕は、あえて日本に帰って来て、僕のような違う視点での意見を積極的に日本国内でいうことや、僕の日本での動向を見て、僕みたいな思いで実力のある 研究者が日本に少しでも多く帰ってくればで、日本を、「実力のある研究者が研究しやすく、その実力を存分発揮出来る」、国に変えて行けるのではと思う。こ れが、僕が日本に帰って来た幾つかの理由の1つだ。
もう1つの理由は (続く)。