2011年4月17日日曜日

2011年4月16日

最近、学校・社会では、全ての子供・学生(小学校、中学校、大学、大学院)を同じように「流れ作業の工程」にいれて、「高性能の欠陥の無い優れた同一の製品」をつくるように育てる、といった傾向にあるようと僕は感じている。

僕のラボでは多くの大学院生さんたち、数人の他大学の学部生さんたち、数人の地元の高校生さんたちを教育しているわけだが、僕は決して、これらの学生さんたちに「高性能の欠陥の無い同一の優れた製品」をつくるような教育はしない。

その代わり、ひとりひとりを「手作り」でつくりあげていき、ひとりひとりが進化できるように、激しい環境の変化に常にさらすようにしている。このような育て方をすると「ひとりひとりが違う傑作」ができあがるが、当然「失敗作」もできてくる。

しかし、「手作り」でつくりあげられ、激しい環境の変化に常にさらされて、その結果できてきた「失敗作」は「魅力ある失敗作」であって、とても価値ある存在となる。

「流れ作業の工程」で大量にできてくる「高性能の欠陥の無い優れた製品」は魅力の無いモノで、壊れたり古くなればポイと捨てられ、新しい同一の「高性能の欠陥の無い優れた製品」に交換される。また、「流れ作業の工程」で稀にできてくる「失敗作」はどうしょうもなく使いものにならないモノなので、「ゴミ箱にポイ」される。価値ある魅力ある失敗作」とは違う。

だから、だれかが、僕の学生さんを「流れ作業の工程」にいれようとしようものなら、僕は自分の教員生命をはって、そのような相手と対決する。