2014年11月6日木曜日

2014116日【20141021&22日朝日新聞Webronza論考】
以下、20141021日と22日のウエブロンザに掲載された僕の論考です。すでに時効なので、朝日新聞に許可の上で全文コピーを公開します。


ノーベル賞発表後の反応に日本の問題点が出た
~「役に立つ、立たない」という議論のナンセンス


 今年のノーベル賞発表が終わった。赤崎勇氏、天野浩氏の2人の日本人(中村修二氏は米国籍)がノーベル物理学賞を受賞した。とても喜ばしいことだ。しかし、Twitterなどのネットや、新聞、テレビなどの報道を見聞きして、「またか」「相変わらずだな」と感じることがいくつかあった。これらには現在の日本社会全体に蔓延する問題点が出たと思われるので、この機会に論じたい。
 大きく分けて2つのことを論ずる。先ずは、「役に立つ研究、役に立たない研究の議論のナンセンスさ」について。そして、「日本独特のノーベル賞報道の異様さ」を取り上げる。


【熱く続く「役に立つ研究、役に立たない研究」の議論】
 今年のノーベル医学生理学賞は「脳内の空間ポジションを認知する神経細胞の発見」に与えられた。つまり、自分が何処にいるのかを認知する脳メカニズムの発見という、われわれ人間を含む動物が備えている生存に必要な根本的なシステムの理解につながるものだ。さらに一般化すると「人間とは?」「生きているということは?」という哲学的問いに通ずる発見のひとつといってもよい。一方、ノーベル物理学賞は「青色発光ダイオードの発明」という、われわれの生活に直接的な影響を及ぼした発明に対する授与だった。また、ノーベル化学賞は「超高解像度の蛍光顕微鏡技術の開発」という、バイオサイエンス、医学など多くの生命科学研究を支える技術発明に対して与えられた。
 これらの受賞を受けて、研究者の間では「役に立つ研究、役に立たない研究」といった議論が熱く延々と続いている。筆者は、こういった議論はナンセンスで不毛だと考える。何故かを説明しよう。
 
 そもそも、こういう議論をしている研究者たちの視野が狭すぎる。「役に立つ、役に立たない」を「経済的効果のみ」で定義しているからだ。科学者として恥ずべき視野の狭さだ。
「役に立つ」とは、経済的効果のみではなく、われわれ人間が「人間とはなにか」「生とは何か」といった、哲学的またヒューマニティーに関わる根本的な問題を問い、議論することに役立つという側面もあるのだ。仮に、このようなことを問わなくなれば、文化的生活は消え、秩序は乱れ、欲望のみに支配された世の中が待ち受けていることは自明であり、経済的効果以外の意味で役立つ研究はいくらでもある。今年のノーベル医学生理学賞はそういう意味で「役に立つ研究」だ。
 このような発言をすると、「いやいや、われわれがそう定義しているのではなく、研究費を出す行政機関側が直接的経済効果につながるような研究に優先的にお金を出しているのだ」という研究者もいるであろう。しかし、国の行政機関は公的な機関であり、そういった機関から支給される研究費は国民の税金だ。したがって、血税で研究をするのであれば、国民がパトロンであり、その国民に、研究者自身が、何故自分の研究にお金を出す必要があるのかを説明し説得する必要があるのは当然だ。説明や説得をしない、あるいはできないことを棚に上げて、「研究費を支給する行政機関が直接的な経済的効果が望まれる研究ばかりに巨額の研究費を支給している」と批判するのは、身勝手で幼稚な発言だ。

【公的な機関以外のパトロンが少ない日本】
 仮にそのような説明や啓蒙活動(あるいはロビー活動)をしたにも関わらず直接的な経済的効果のみを望む国民(あるいは国民の選んだ国の執行部)の風潮があるのだとすれば、公的な機関以外のパトロンを見つけ、そこから研究費を獲得するしかない。
それが日本では難しいのは事実である。国以外の財団からの研究助成もあるにはあるが、その規模が比較的小さいからだ。米国のハワード・ヒューズ医学研究所(Howard Hughes Medical Institute=HHMI)や他の民間財団にみるレベルの大型研究費は日本には皆無だ。
 また、日本では、アカデミアの研究活動のほとんどが国立大学、理化学研究所といった国の研究機関で行われている。国立大学や国の研究所は国民の税金で運営されている。私立大学も、国からの運営助成金、また国からのさまざまな制約無しには存続できない。したがって、上述したように、その時代の風潮(流行)に多かれ少なかれ影響されざるをえないため、研究テーマの多様性という意味では限定的になる。米国では、大型の寄付金などに支えられた世界一流の民間研究所が数多くある。日本国内にはそういった民間研究所はほとんどない。
 このような国内の研究環境の問題点は根深いもので、なかなか変わるものではない。そういった状況のなかで「独創性に富んだ基礎研究には、暇や遊び心が大切だ。そういった研究はすぐに経済的効果をもたらさないが、長期的にみれば何時どのように実用化に発展するか分からない。なので、もっと長期的また寛大な視野に立って、一見すると役には立ちそうにないが重要な基礎研究をサポートして頂きたい」と叫んだところで、多くの国民また行政機関の方々の理解は得られないであろう。
「暇や遊び心」は「怠慢」と、「長期的また寛大な視野」は「実用化は半永久的に不可能」と捉えられるのがオチである。こうした主張では、「知的活動とは日々身を削る思いで全てを犠牲にして行うもの」であることも、「9,999の実用化につながらない研究なしには1の実用化につながる研究成果はあり得ない」ことも、まず理解されまい。

【大切なのは執念と自信】

 ではどうしたらいいのか。それは個々の研究者が自身の研究者人生をもってそれぞれの研究の重要性を実証するしかないと筆者は考える。少なくとも「役に立つ研究、役に立たない研究」といったナンセンスな議論に不毛な時間をこれ以上費やすことは止め、「質の高い研究とはなにか」という前向きな議論に転換すべきだ。その方が、よほど有意義で前向きではないだろうか。
 もし本当に研究者自身が自分の研究テーマは重要で、それを進めることが世の中のためになり、それを遂行する能力が自身にあるという自負があるならば、やり方はいくらでもあると筆者は確信している。そのやり方は、人それぞれで、またその時の状況で違ってくるが、もっとも大切なのは「執念と自信」であろう。
  その実例といっていいのが、今年のノーベル化学賞を受賞したEric Betzig(エリック・ベッツィグ)である。

【無職時代に新理論をつくった化学賞受賞者】
 ベッツィグは、筆者が教授を兼任しているコーネル大学で物理学のPhD(博士号)をとった後(ちなみにコーネル大学には二光子顕微鏡という生命科学の研究に今では欠かせない、組織の深部まで見ることの出来る顕微鏡を発明したWatt Webb(ワット・ウェブ)がいる。彼もノーベル賞を受賞して当然のサイエンティストだと筆者は思っている)、ベル研究所(多くのノーベル賞受賞者が輩出した民間企業の研究所)で高解像度顕微鏡の研究開発を行ったが、研究環境の限界を感じ、同時にベル研の経営難も重なり、研究所を去る。そして、ミシガン州にある実家に帰り、父の工場でシステム開発に携わる。
しかし、そのシステムも実用化には至らず無職となる(一応、自分で始めたコンサル会社の個人事業主ではあったが、実情はいわゆるフリーターであった)。それでも彼は高解像度顕微鏡の研究開発への執着心を失わず、毎日、性能をさらに上げるための理論をノートパソコンと自身の頭のみで考え続けた。その結果、フリーター時代に新理論を生み出すこととなる。
時期を同じくして、前述の民間研究財団HHMIJanelia Farm(ジャネリアファーム)という、イメージング技術と神経科学を中心とした研究所を立ち上げた(ファームとは農場だが、ここは研究を耕し育てる場という意味で名付けられた)。これはベル研究所をひとつのモデルとしていることもあり、ベル研関係の著名研究者OB(残念ながらその中にOGはいなかった)たちにもいろいろとアドバイスをもらい、その過程でグループリーダー候補としてベッツィグの名が浮上した。その結果、彼はフリーター時代に生み出した新理論をもとに新型顕微鏡を開発する機会に恵まれることとなり、PALMという高解像度蛍光顕微鏡の開発に成功したのだった。
まさに執念と自信で成果をあげ、その研究の重要性がノーベル財団によって認められたのである。           (続く)



続・ノーベル賞発表後の反応に日本の問題点が出た
~時代遅れの報道の罪

【受賞者のプライベートな事柄などどうでもよい】
 ノーベル賞発表後の研究者の反応について論じた前稿に続き、続編では日本国内におけるノーベル賞報道を論じよう。それが異様であることはかなり以前から指摘されている。そして、今回のノーベル物理学賞での日本人受賞後の各種報道も「相変わらず」であった。受賞者の人柄、生い立ち、家族関係、過去にマスコミを騒がした問題の蒸し返し、などを繰り返し報道した。タブロイド系のメディアは、それが目的なので仕方がないとしても、視座の高くあるべき各種メディアまでがそういった報道をした。
 こういった日本独特のノーベル賞受賞報道は、日本文化というよりは、時代の変化への対応が遅いが故に起こっている現象だと筆者は考える。ノーベル賞受賞者のプライベートな事柄など、今時の国民の多くは「そんなことはどうでも良い」と思っているのではないだろうか。実際は、報道機関がそういった事柄を繰り返し報道するために、それらを見聞きした「結果」、国民の好奇心に火がつけられ、ネット上での噂話を煽るのではないだろうか。
 その昔、まだノーベル賞が日本では夢のまた夢だった頃、日本人のノーベル賞受賞に皆で万歳三唱をしていたような時代に創られたプロトコールにしたがって、報道準備、また受賞後の報道が行われているのではないだろうか。
 以前、報道機関の若い記者たちが「日本の報道陣が大勢ストックホルムに押しかける異様さはわかっているが、プロトコールにしたがった社命なので仕方がない」と言っておられた。組織内で、上から下まで、だれも自分の判断と責任で命令を下す、あるいは行動することが出来ない(しない)ために、結局、いままでの慣習・慣例に従うという無難な道を選ぶことになっているのだろう。そうすることで、なにがあっても誰の責任でもないという「無責任さ」が蔓延する。その結果、時代の急速な変化に対応できない社会ができあがるのだ。
 こういった「時代の急速な変化に対応できない」例は他にも多く存在する。筆者のように研究者を職業としていると、毎年研究費を獲得しなければならない。公募型研究費のひとつに文部科学省系の科学研究費(通称「科研費」)があるが、その申請書の様式もその類いのひとつだ。まったく時代遅れで、タイプライター時代の様式そのままである。それぞれの記入項目、また各ページが太字の頑固な枠に囲まれていて、そこに求められている情報を記入していく。
世間一般に出回っている履歴書の様式も同様だ。今では、ほぼ全員がWordなどのコンピューターソフトを使って書類を作成する時代なので、フォントやマージンを指定するだけで済むはずにも関わらず、未だにタイプライター(あるいは手書き)時代のままの様式が使用されているのだ。これらも、様式を変えることで万が一想定外の不都合さや問題がおこった時に誰が責任をとるのだとなるので、今まで通り無難にやりましょうということになっているのであろう。

【サイエンスを親しみやすくする功罪】

 ノーベル賞報道に対しては別の見方もある。受賞者の私的部分を報道することで、ノーベル賞をもらうような人たちも、実はわれわれと同じような普通の人の側面があるのですよ、と伝えるのは意味があるという意見だ。そうすることで、サイエンスを親しみやすいものにしたいという願いがあるのかもしれない。日本では、皆が同じレベルであることがある種の安堵感をもたらす。そういう意味で、ノーベル賞を受賞するような人たちも、実は自分たちと同じ面もあるんだよと示したいのかもしれない。
 しかし、これも一長一短だと筆者は考える。サイエンスに親しむ機会が増え、ノーベル賞受賞者が親しみやすくなることで、サイエンスを志す若い人たちが増えるという効果があれば、それは日本の将来にとっても良いことだ。しかし、マイナスの部分もある。一流のサイエンティストになるにはそれなりの厳しい修行を積む必要があるのだが、そういった修行に耐える覚悟もなしに志す若い人が増えることになりはしないか。それは本人にも社会にもプラスにならない。
厳しい訓練や選別があり、最終的に残るのは一握りという状況であれば、予備軍の母集団が大きいほど、選ぶ方からすると選択肢が増え、また大化けする人物が現れる可能性も大きくなる。しかし、日本の現実は、希望すれば誰しもがどこかの大学院に入学でき、また、在籍年数さえ満たせば、ほぼ必ず学位をもらえるといった「自然淘汰の存在しない教育システム」がはびこっている。だから、覚悟のない希望者が増えるということはサイエンスの全体的レベル低下につながる。教育指導する方にすれば、真剣に研究する時間が削がれ、学生を真剣に教育する熱意も失うという事態に見舞われるので、たまったものではない。

 2回にわたって論じた数々の問題は、さまざまな要素が複雑に絡み合っているので、そう簡単に解決できるものではない。しかし、こういった問題を提起することで、なにがしかの変化へのきっかけとなればと筆者は願う。