僕の2013年2月27日掲載の朝日新聞Webronzaの論考です。すでに6ヶ月以上前のものなので、朝日新聞に許可を得て以下にコピーします。
iPS細胞を用いた臨床試験と「人体実験」を分けるもの
目の難病である加齢黄斑変性に対して、iPS細胞を用いた臨床試験が始まる見込みになった。神戸市の先端医療センターの倫理委員会が、「安全性についての結果を臨床委員会に報告する」という条件付きで、同センターでの臨床試験を承認したのである。国が承認すれば、世界で初めてのiPS細胞を用いての臨床試験がiPS細胞の発明された日本で始まる。この臨床試験は安全性の確認が主な目的になっている。
そう聞くと、「安全性もまだ100%わからないのに、ヒトに直接つかって、安全性を確認しようとしているのか。これは、人体実験ではないか」という素朴な疑問が出てくるかもしれない。そこで、再生医療を含めた生命科学の研究をしている立場から、人体実験と臨床試験の違いは何なのかについて、筆者の意見を述べる。
まず、ヒトで試す前に、動物で安全性を確認すればよいではないか、という意見があると思われる。もちろん、そうである。iPS細胞の場合も、数えきれないほどの動物実験で安全性、また、有効性を確認した。すべての薬、治療法において、培養細胞、動物をつかって安全性、有効性をまずは確認する。しかし、残念なことに、多くの薬が、培養細胞や動物では、有効であり、安全性も確認されたにも関わらず、ヒトではまったく効かない、あるいは毒性が出てしまう。
先日、国際的に評価の高い、米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences,)に、これまで日常的に薬の効果をみるために使われてきた動物(ネズミ)と、ヒトでは、同じ炎症によって引き起こされるさまざまな疾患に対しての遺伝子レベルでの応答にほとんど共通性がないことが報告された。実際、病原体によって引き起こされる全身性炎症反応症候群(SIRS)のひとつである敗血症でも、これまで動物実験で効果があるといわれた150以上の薬の全てがヒトではほとんど効かないことがわかっている。アルツハイマー病も動物実験では効果のある薬が数多く存在するが、いまだにヒトのアルツハイマー病を治すことのできる薬は存在しない。つまり、動物で効果のある薬の大部分がヒトでは効かない、といっても過言ではない。
したがって、動物実験で毒性が無く、効果があると確認された薬や治療法も、ヒトの疾患で効果があるか、毒性が無いか、ということは実際にヒトでテストするまで解らないという側面がある。動物実験の段階で、対象となるヒトの疾患と同じような症状を持つ動物モデルを選び、長い年月と膨大な研究開発費を使って、大学、研究所、製薬会社は、最も効果があり毒性の少ない「可能性」をもった薬・治療法を選別していくのである。それらの結果をもとに、ヒトの患者に対して臨床試験を行うための許可を、臨床試験を行う機関の倫理委員会へ申請し、そこで許可がおりると、国に、臨床試験開始を求めた申請を行う。国の専門機関が、その申請へ許可を出してはじめてヒトを対象とした臨床試験が開始される。
ここまで書くと明らかなように、臨床試験を行う機関の倫理委員会、また、最終的な臨床試験開始の許可をだす国の判断は相当重大な責任を持つ。この段階での審査がしっかりと行われないと、「臨床試験」でなく、「人体実験」となってしまうのである。
これらの機関では、「人体実験」とならないために、倫理的に正当化出来る治療法なのか、その薬・治療法はヒトに対する毒性の可能性は限りなく低いのか、ヒトに対して治療効果の可能性は高いのか、もっと安全で効果的な代替薬・治療法は存在しないのか、といったことを含めて、客観的データに基づいた多面的な審査を慎重に行う必要がある。
例えば、加齢黄斑変性の臨床試験についていえば、現段階では不透明なiPS細胞のガン化のリスクを冒してでも治療することが倫理的に正当化できるか。また、すでに米国バイオ企業アドバンスト・セル・テクノロジー社が2011年以来、胚性幹細胞(ES細胞)により作成した網膜細胞の移植による臨床試験を始めており、目がほとんど見えない患者の視力を回復させることに成功したとの報告もなされている。この結果は安全性を確認するための試験の一環として出てきた予備的なデータに基づく報告であるので、今後のさらなる臨床試験の結果を見守る必要があるが、現段階で、ES細胞よりも、iPS細胞を使うことが多面的にみて正当化できるか。これらを含めた多くの倫理的、また、実質的な問題を審査機関は慎重に審議しなければならない。
筆者のこれまでの観察によると、どうも「ノーベル賞をとった研究なのだから、きっと素晴らしい治療方法で必ずや効くに違いない」という支配的国民感情が存在し、それをマスコミが煽っているような気がしてならない。また、「これはオールジャパンのプロジェクトなので、なにがなんでも成功させ日本がiPS細胞を用いた再生治療で世界一になる必要がある」という尋常でない強迫観念のようなものさえ感じられる。
我々は、「成熟した細胞を初期化することが可能であることを発見した」ことに対すノーベル賞がガードン氏と山中さんに授与されたのであって、iPS細胞を用いた再生治療に対して与えられたものでは無いということをしっかり理解する必要がある。
この辺をふまえて、これから、次から次へと出てくるであろう、iPS細胞を用いたさまざまなヒト疾患治療のための臨床試験の申請を、冷静かつ客観的に、また慎重に(しかし、本当に必要と認められる場合には“無駄に慎重”になるのではなく、治療を待ち望んでいる患者さんたちのためにも“速やかに”)審査して頂きたいと、筆者は強く願う。