2014年5月21日水曜日

2014521日【朝日新聞Webronza201457日論考】
僕の、朝日新聞Webronza 201457日付けの論考です。掲載後、二週間以上経ったので、朝日新聞に許可を得て、以下にコピーを公開致します。

STAP細胞泥仕合が映し出す現代日本社会の醜さ
~「かくれ小保方」はいくらでもいる


 STAP細胞騒動は、月日が経つごとに醜さを増している。STAP細胞発見の論文発表と理化学研究所による盛大な記者会見は、今年1月のことだった。その後、小保方晴子氏による研究不正・捏造容疑が浮上し、理化学研究所調査委員会による小保方氏の研究不正・捏造認定、小保方氏による記者会見と弁護士を通じての理化学研究所調査委員会の研究不正・捏造認定に対する不服申し立て、小保方氏の共同研究者で神戸の理化学研究所(発生・再生科学総合研究センター)副センター長の笹井芳樹氏による記者会見、理化学研究所調査委員会の石井俊輔委員長また複数の委員らの過去の論文に図の切り貼り疑惑の浮上、石井氏の調査委員長辞任、と事態は目まぐるしく動いた。
 筆者は、現在進行中の小保方氏と理化学研究所の泥仕合は、研究の世界に留まらない、現代日本が抱える多くの問題点を映し出していると考える。これらの問題点は大きくわけて2つある。ひとつは、小保方氏のような人物、あるいは小保方予備軍は、現代日本社会に多く潜んでいるという問題だ。もうひとつは、日本の国、社会、各種組織(会社、大学、研究所など)が「固い」が、「頑強」でないという問題だ。
 この2点について筆者の考えを述べる前に、先ず、筆者は、この問題に関しての利害関係は皆無だということを断っておきたい。小保方氏とは面識もないし、理化学研究所との研究上あるいは運営上の関わりも皆無であり、また日本の各種学会にも全く所属していない。筆者は1985年に米国に渡り、2009年に日本に帰った。その後に思い知らされたさまざまな現代日本社会の問題点が、STAP細胞騒動で集約されて現れたと考えている。

n   ルールを叩き込まれていない大人
 小保方氏は、記者会見の中で、図の切り貼り、論文の主要データの一部をまったく無関係の他の研究データから流用した事実については認めた。しかし、図の切り貼りについては「やってはならないことだと知らなかった」、無関係データの流用については「単なる間違いで意図的(法的な定義に基づいた意味ではなく、日常的に使われている意味においての「意図的」)ではない」と説明した。つまり、ルール上やってはならないことをしてしまったが、ルールを破ろうとして破ったのではないという説明だ。
このような「言い訳」が通用する社会は、この世の中に存在しない。
 研究者には世界共通の最低限のルールがあり、そのルールの中で研究を行う。そうしないと、客観的事実を突き詰めるサイエンスと、事実に基づかないサイエンスフィクションとの境目が無くなってしまう。一般市民も、最低限のルールの中で生活をする。そうしないと、無秩序な社会になり、酷い場合には人間としての道徳、尊厳といったものが失われてしまう。しかし、筆者が2009年に帰国して驚いたことのひとつに、現代日本では、このような「小保方流言い訳」が通用すると考えている大人が、非常に増えていることがある。特に、他人に対しては、このような言い訳は通用しないことを前提とするが、自分の立場になると、それは突然崩れる、といった大人が多いことに呆れている。
 これは、子供から大人になる過程で、社会のルールを「叩き込まなく」なったせいであろうと筆者は考える。社会のルールは、世界の狭い子供にはなかなか理解できないものが多くある。これらは、多くの子供には理不尽に見える。しかし、大人になるにしたがって世界は広がり、これらのルールを守ることが不可欠になる。したがって、場合によっては、子供にはこれらのルールを、理屈抜きに(しかし、愛情をもって)叩き込まなければならない。
おそらく、家庭でも学校でも、子供を遠慮して叱らなくなったのだろう。あるいは、子供の叱り方が分からなくなってしまっているのかもしれない。親や先生に、うまく叱られてこなかった人間が、自分の子、あるいは生徒や学生を、うまく叱れるはずがない。
 研究の世界でも同じだ。研究者になる過程で、しっかりと学ぶべき世界共通の最低限のルールがある。しかし、これらのルールを身につけずに学位をとって卒業し、研究者となってしまう者が急増している。本来、このようなルールを身につけていない者は、学位を修得出来ないはずである。しかし、日本の小中高・大学・大学院(修士、博士)と、ほとんどの場合、何を身につけていようが、いまいが、あらかじめ決められた年数を経れば、上へ進級できるシステムになっている。大学、大学院も一応入学試験はあるが、近年の少子化現象もあり、誰でも、どこかの大学、大学院に入学はできる。いったん入学すれば、決められた年限さえたてば、多くの場合、学位は授与され、卒業できる。あらかじめ決められた年限内(大学の場合4年、大学院の修士で2年、博士で5年)に何人卒業させることが出来たかが、文部科学省による学校評価に大きく反映されるので、学校側は学生を年限内に卒業させようとするのである。
 また、筆者が日本に帰ってもっとも驚いたことの一つが、「日本社会はババ抜きなんですよ」と、いたるところで躊躇なく囁かれていることだ。高校では、どんなに酷い生徒でも、とにかく卒業させて大学に入学させれば、とりあえず高校の役目は終わり。酷い生徒(つまりババ)をつかまされた大学のことは知らない。どんな酷い学生も、大学、あるいは大学院を卒業させて、就職させてしまえば、大学・大学院の役目は終わり。「ババ」をつかまされた会社のことは知らない。「ババ」に執拗にルールを叩き込もうとして、「ババ」、あるいは「ババの親」に、アカハラ、パワハラと訴えられるよりは、学位を授与し、そっと卒業させて、どこかに就職させてあげたほうが、全てが無難だという考えだ。こういった現状の中で、最低限のルールを身につけていない「ババ」が、学位をもって、平然と研究に携わっているのだ。

n   歪んだ個性教育
 小保方氏が、記者会見の中で、「このような私の未熟さが、STAP細胞という大発見を可能にした(意訳)」、というような内容のことを発言されていた。(そもそものSTAP現象、STAP細胞のアイデアはハーバード大学のバカンティ氏によるので、この発言自体、不正確なのだが、それは別として)このように、自分の未熟さを肯定する態度も、頻繁に目にする。これも、家庭での躾、学校での教育の失敗のせいであろうと筆者は考える。「未熟」は単なる「無知」であり、「無知」からは「大胆で独創的な発想」は生まれないということは、まともな研究者であれば誰もが認めることである。
 近年の日本における教育では、「歪んだ個性教育」が重視され、「真の意味での個性教育」がなされてこなかったのであろうと、筆者は察する。歪んだ個性教育の果てには、ただ単にわがままで、独りよがりで自己完結型の論理の展開をし、反証無しに結論づける、ある意味手に負えない人間が出来上がる。教育を受ける前の子供の多くは、こういった未熟な考え方をする。教育とは、こういった未熟な考え方から脱皮させ、物事を広い視点で考察し、様々な方面から反証し、客観的な事実に基づいて論理的に物事を考える能力を身につけさせることである。こういったスキルを身につけた上で、それを土台に、個々の個性を磨くことで、大胆で、真に独創的な発想ができるようになる。

 以上のように、日本の研究の世界、また日本社会全体において、数多くの「かくれ小保方、あるいは小保方予備軍」が横行している。これらが、日本社会において、これからも、さまざまな問題をおこしていくであろう。残念ながら、こういった問題は、一気には解決できない。また、家庭では、親自身が「かくれ小保方、あるいは小保方予備軍」である限り、子供の真っ当な躾は困難だ。しかし、せめて、学校での教育で、少しずつ良い方向へ改めていくことを今すぐに始めて欲しいと、筆者は強く願っている。