2014年9月22日【2014年9月3日朝日新聞ウエブロンザ論考】
以下、2014年9月3日ウエブロンザに掲載された僕の論考です。すでに時効なので、朝日新聞に許可の上で全文コピーを公開します。
理化学研究所の改革案は百害あって一利なし
理化学研究所の改革案が8月27日に発表された。小保方晴子氏が所属し、故笹井芳樹氏の所属していた、発生・再生科学総合研究センター(CDB)は名称を変更し、現在の研究室数を半減、竹市雅俊センター長は退任して次期センター長を国際公募により選定するといったものであった。
筆者は「またか」と呆れた。日本に大昔から習慣化(?)している「連帯責任」がここでも適用されたのだ。筆者は、この連帯責任文化が、「個」の独創性を妨害し、日本の国そして組織が「固いがもろい」たる根源的理由だと確信している。その弱点を放置していいのか。むしろ、今の日本にとって必要なのは「柔らかいが強い」組織づくりではないか。それを目指そうとするなら、今回の改革案はまるで失格である。
まず、理化学研究所のようにアカデミアの研究所では、各研究室はそれぞれが独立したグループであり、各研究室はPI(Principal Investigator:研究室責任者)とよばれる独立したリーダー(責任者)によって運営されているということを明確にしておきたい。それぞれの研究室は独立した研究テーマで研究を行っているのだ。つまり、ひとつひとつの研究室は別々の中小企業みたいなものなのだ。複数の研究室が共通の興味や目的を共有したときには、共同研究という形でいくつかの研究室が協力しあうが、そうでなければ研究はバラバラに行う。一方、企業の研究所は、多くの場合、会社のミッションを達成するために会社の利益につながる研究を研究所または会社が「一丸」となって皆が協力して研究を行う。
つまり、今回のケースでは、STAP細胞の共同研究を行った研究室以外の研究室は、いわば別の中小企業のようなものである。各研究室は理化学研究所という親会社の部署や子会社ではないのだ。それにも関わらず、今回のような連帯責任を負わされることになった。高校野球で、ひとりの生徒が万引きをしたという理由で、その野球部全員が連帯責任をとらされ公式試合への出場を1年間停止されるのと同様、あるいはそれよりひどい扱いを受けたのだ。理不尽としか言いようがない。この理不尽に皆が耐え忍ぶのが日本の昔からの習わしなのだ。
筆者は、この日本の習わしの奥深いところには、「個」の軽視、もっといえば「個」の否定があると考える。日本においては、国また組織という「箱」が先ずあり、その「箱」の中において個々の役割が理路整然と与えられる。ひとはそれぞれに与えられた役割を、愚痴はいうが文句は言わず黙々と果たすのだ。ある意味、ひとりひとりは役割を与えられたロボットだ。
国や組織にとって、ひとりひとりは「駒」であり、(国やその組織にとって)良いこと役に立つことをすればご褒美が出る。非協力的あるいは非行をはたらいた駒は、当人だけでなく、関係をもっている他の駒またその駒の所属する組織を排除したり罰したりすることで反省させる。これが連帯責任だ。そのような処罰は見せしめ効果も発揮する。
要するに、個<<国・組織という構造である。まず「個」が存在し、それぞれの「個」が共通の目的へ向かい、かつ個々の利益にも結びつけるために、お互いを尊重しながら一丸となってミッションを達成するためお互いが協力するという、個>>国・組織という構造ではないのだ。
独創的な発想は、多くの場合、個のレベルで湧き出る。その独創的なアイデアを発展させるためには、複数の個が集まって協力する必要がある。その必要性のもとにできるのが「柔らかくて強い」組織である。
一方、箱がまず存在し、その箱に個を埋めていくような社会では、個が自主的に何かを考えたり、行動したり、といったことが出来にくくなり、常に他人の目を気にし、他の顔色を伺い、国や組織の命にしたがうといった「受け身の構造」が出来上がる。
そこでは個と個のつながりが希薄になるため、コンプライアンスは機能しなくなり、固いだけでもろい国や組織になってしまう。また、ひとつの組織では機能できるが、他の組織では機能できない個が出来上がる。そして、その国や組織が機能不全になると、個も同時に機能不全になってしまうのだ。
それぞれの「個」が集まってつくりあげる組織では、責任者である長や上層部は、なにかあった場合には全責任を負うが、その他が連帯責任をとることはあり得ない。今回のように、アカデミアの研究所において、まったく関係のない独立した研究室までとばっちりを受けるというのは、欧米の研究者には理解できまい。日本の研究界で連帯責任を課すことが至るところで行われ始めると、他の機関の研究者(個)たちもビクビクしはじめるであろう。こういった負のエネルギーほど、独創性の芽をつみとるものはない。
今回、CDBの研究室を半減するにあたって、廃止される研究グループは他の理化学研究所のセンターなどへ移動させることで、研究活動への悪影響を最小限にとどめるといった配慮がなされるらしいが、これこそ、組織が個を「駒」と見なしている証拠だ。会社において、社員が本人の意思とはほぼ関係なく、会社の意向で支社や系列会社などへ移動を命ぜられるのと同様の処遇だ。解雇はしないが、他の支社(この場合、他の理化学研究所のセンター)へ移動を命ぜられるのだ。
「箱」ありきの組織つくりや運営をいつまでもやっていては、コンプライアンスなどは名ばかりのものになってしまい、固いだけのもろい組織ばかりの現状からは脱却できないだろう。「個」ありきの組織づくりをおこなうことで、柔軟性にとんだ強い組織が出来る社会に一刻も早く生まれ変わって欲しいと切に願う。その意味でも、8月7日に理化学研究所の野依良治理事長から下村博文文部科学大臣に手渡された改革案が、そのまま執行されることは、今後の日本にとっては百害あって一利なしである。