2010年3月12日金曜日

2010年3月11日

日本で盛んに透明性というのが至る所で叫ばれている。英語だとTransparency と呼ばれていて、アメリカでもよく言われる。でも日本の「透明性」はアメリカの「Transparency」とは違った目的で使われている様に僕は感じる。 日本は「透明性」や「情報公開」をする事によって、他の人、他の会社、他の団体よりも儲けていたり、立場的に優位に位置する人、会社、団体を摘 発し、それらを扱き下ろすために行われているように僕は思えてならない。不正を防止するといったことが表向きの理由だけど、ひとより儲けていたり、優位に たってたすると、意地でも不正を見つけてめちゃくちゃにしてしまうということらしい。日本では「透明性」や「情報公開」することによって、日本中みんな同 じにして、ひとより儲けたり、優位にたつものをゼロにしようということらしい。どうしょうもない風習である。とにかく、皆が同じである事を大切にする国で ある。
研究・教育に関しても同じ。日本の研究・教育もとにかく皆が仲良く色々なものを分け合って生きていきましょうという雰囲気である。一人でもそれ を乱したり、目だったり、沢山や名声を得ようものなら、まわりからの嫉妬とひがみの雨嵐で、ありとあらゆる手を使って徹底的に潰される。怖い国だと思う。