2014年1月27日月曜日

2014年1月27日

ありとあらゆる可能性を抽出し、それぞれを客観的に分析・考察することは、大人として当然身につけているべき論理的な考え方の基礎となるのだが、それが出来ない(というかその感覚自体が根本的に理解できない)人が多いと感じる。このスキルは学校教育の基礎をなすべきものなのだが、小中高や大学で、こういうことをきちんとトレーニングできる教員を雇って子供のころから少しずつこういうスキルを身につけさせるのは最低限必要ではなかろうか。

2014年1月26日日曜日

2014年1月26日

ここ一週間ほど、アメリカの夢ばかりみる。夢の中では僕はいつも実験している。でも、微妙にその中に日本の人たちが登場してくる(なぜか、その人たちも英語をしゃべっている)。そういう訳で、ここ数日は精神的にかなりダウン。そろそろニューヨークに行かないといけないかな。

2014年1月25日土曜日

2014年1月25日

自分の性格や行動スタイルなど、どの部分が本来自分に備わっているもので、どの部分が実はまわりからつくられてしまっている虚像なのかを自分ではっきり理解しておかないとなかなか物事はうまくいかない。特に、まわりからつくられてしまっている虚像の部分が本来は自分に備わっていないのに自分の求めているもの(つまり願望している像)だったりすると、ついついその虚像を実像と勘違いしてしまう傾向にひとはある。その辺がしっかり区別できることを大人になる過程で身につけておかないととんでもないモンスターになってしまう。しかし、実はこのスキルを身につけるのはそう容易いことではなく、かなりハード。

2014年1月19日日曜日

2014年1月19日

マッカーサーが「日本人は12歳の子供」と言った話し。昔からなにも変わっていない、、、。

2014年1月17日金曜日

2014年1月17日

今更ですが、ここまで「建前」を大切にする国民性なんなんでしょうか。

世界でも、ここまで「建前依存症」の国は、世界中の民主主義国家の中でも珍しいんではなかろうか。建前主義ではなく、もうここまでくると建前依存症である。


「建前依存症」の歴史的背景、あるいは脳科学的説明を知りたい。

2014年1月15日水曜日

2014年1月15日

先日、日本のある方々と話しをしていて、僕は1985年から2009年までずっと米国に住んでいたから、日本のバブルもバブルの崩壊もまったく経験してないし知らないんだな、と改めて自覚しました。これは、日本の同世代の中でかなり異色?

2014年1月14日火曜日

2014年1月14日

今朝、テレビで大阪市長の橋下さんが、成人式で叱ったといわれていたけど、そもそも(1)市長が成人式で行儀の悪い新成人を叱ったくらいでニュースに取り上げるな!(2)親や学校の先生が行儀のわるい子供を躾けないから、市長が叱らなければならなかった、ではないだろうか

2014年1月13日月曜日

2014年1月13日

先日、ある方が「近頃はひとりひとりが長生きするようになったので、それにともなって大人になるのも昔より時間がかかるようになった。だから、最近の20才は昔の小学生程度の精神年齢なのだ」と仰ってました。科学的根拠あるのかな、、、。これが、ある程度でも要因なら、社会的「構造」が個人の精神的成長に影響を与えるということになるような気がするが、、、。

2014年1月12日日曜日

2014年1月12日

今朝はジムでサーキットを一時間とスピンを30分、そして30分ほど水泳。年末、年始の過食でオーバーウエート、筋力低下、持久力低下していたけど、3日以降はしっかり早朝トレーニングして、身体もだいぶんもとに戻ってきた感じ。

2014年1月10日金曜日

2014年1月10日

昨日の続き。
     博士論文や学位論文は英語では「Thesis」。ジャーナルなどに投稿する論文は「Paper」。しかし、日本語では両方とも「論文」とよぶ。これがモラルの低い論文を投稿するといったことの要因のひとつになっているかも、とも思いました。
      

     もちろん、英語圏の国でももちろん研究や論文の不正はあるので、それが「The要因」であるわけではありませんが。

2014年1月9日木曜日

2014年1月9日

大学院生たちをみてて思ったこと:

論文は博士号修得のための「手段」としか思っていない学生が多い。

この低いモラルが、その後、ポジションをとるための「手段」としての論文、研究費を取るための「手段」としての論文、有名になるための「手段」としての論文、ひいてはこういった低いモラルで論文を投稿するために生ずる研究や論文の不正にもつながっているのでは、と思いました。


もちろん研究費をとるためには論文が必要なのは確かだが、論文は「手段」ではなく、良い論文をだした「結果」として研究費がとれる(もちろん、よい論文を出したからといって研究費が必ずとれるとは限らないのですが)べきではないだろうか、と思いました。

2014年1月8日水曜日

2014年1月8日

来年は北海道で一週間くらいクロスカントリーひとり合宿をしたんだけど、なかなか良いところが見つからない。僕はクロスカントリースキーをしたことがないし、ダウンヒルもほとんど初心者なので、そういったレベルの僕を一対一で毎日特訓してくれて5日目くらいには5時間くらいクロスカントリースキーのコースを滑りたいのだけど、、、そういうのをやってくれそうなところが見つからない。「みんなでたのしく滑ろう、歩こう」みたいなツアーは沢山あるのだけど、そういうのは僕は嫌なので、、、将来的にはクロスカントリースキーでかなりのハイレベルを目指したいので。

2014年1月7日火曜日

2014年1月7日

今朝もジムでガッツリとトレーニング。最近は少しでもさぼると体力(主に筋力)の衰えが著しい。兎に角ストイックに早朝トレーニングを続けるしかない。

2014年1月6日月曜日

2014年1月6日

今年はいろんな意味でとても大事な年になることは間違いない。後で後悔しないよう、その場その場で大人の決断を下していこう。

2014年1月5日日曜日

2014年1月5日

以下に20131213日に朝日新聞ウエブロンザに掲載された僕の論考を既に時効ですので朝日新聞から許可を得て以下にコピー致します。


大学の「英語化」は日本の国際競争力を下げる


日本の大学の「英語化」の動きが活発になってきた。「英語化」とは、大学で英語による授業を増やすことのほか、外国人教員の増員、留学生の増員、事務業務の英語化、などの全体を指す。これらを積極的に推進するために国から各大学に巨額の税金が流れ込み、また、これらをどれくらい推進しているかによって各大学が国から評価されている。

しかし、米国の大学で長年研究教育をしてきたひとりとして、筆者はこの状況を大変危惧している。現在の日本の大学の「英語化」は、大学ひいては国の国際競争力を下げることになりかねない危険な要素を多く含んでいるからだ。

そこで、以下に筆者の観察、意見、そして提言を述べる。

【授業の英語化】
これで懸念されるのは、授業の質の低下である。筆者は、所属する奈良先端科学技術大学院大学、またその他の国内のいくつかの大学院で英語による授業を行ったことがある。その経験から言わせて頂くと、英語の不自由な日本人学生と英語を自在に操れる留学生を同じクラスで議論させても内容の濃いものにはならない。日本人の中でもTOEIC満点や海外留学経験者がいるが、それらの多くの英語能力はせいぜい意思疎通を英語でスムーズに行えるといった程度であって、専門分野を深く掘り下げて、微妙なニュアンスを使い分けて侃々諤々(かんかんがくがく)と議論をおこなえるレベルからはほど遠い。

また、筆者の知る限り、現状では、大学での英語による授業は、とにかく英語を喋ることに重きがおかれ、授業の内容を深く理解することは二の次になる傾向があるように観察している。つまり、授業の中身が薄っぺらになり、大学の授業が「英会話学校化」している場合が多い。

そもそも、英語で学問を深く学ぶ授業を受けるのは、英語を母国語とする人たちのなかでもかなり学力のある人たちである。日本語を使ってすら論理的な考え方のできない日本人大学生が、英会話レベルあるいはビジネス英語を少々身につけたところで、学問を学ぶレベルの英語授業に参加できないことは、少し考えれば誰しもわかるだろう。
筆者は大学生の時にTOEFLでほぼ満点近い点をとり、英語はかなり出来た。しかし、22才で米国大学院へ行った時には、大学院あるいは学部4年生が履修している授業について行くのは大変困難であった。落第せずになんとか授業についていけたのは、それまで日本語で身につけた学力があったからこそである。正直なところ、英語を母国語とする博士レベルのひとたちと読み書きも含めて対等に英語を操れるようになるには、大学卒業後(つまりTOEFLでほぼ満点近い点をとった後)25年あまりかかった。

【外国人教員の増員】
これで懸念されるのは、研究力・学術的能力が平均レベルあるいはそれ以下の外国人教員が増加する危険性だ。英語が母国語だからという点を重視して採用すれば、そうなりかねない。

たとえば、シンガポールなどのように外国人研究者の誘致に成功している国の例をとってみても、実際に来ているのは、米国や欧州でトップの地位を獲得できない研究者、米国や欧州でトップの地位を引退した(あるいは引退しつつある)研究者が多い。トップレベルの現役の研究者もいるにはいるが、その場合は米国や欧州に主たる研究グループを残したまま、年に数週間だけシンガポールに駐在する、といったパターンが多い。つまり、シンガポールのように英語で生活することになんの困難もない国ですらこのような状況なのである。日本は英語で生活しにくい国であることを考えれば、米国や欧州で現役バリバリのトップ研究者が常駐する可能性は限りなく低いと見なければならない。

また、現在、日本の大学にいる英語を母国語としている外国人教員の英語のレベルはそう高くないことを筆者は知っている。筆者は、日本の大学に雇われている英語を母国語とする教員の数人に、彼ら/彼女らが書く専門分野の英語の文章の添削を頻繁に頼まれている。また、大学から発行される「ネイティブチェックを受けている」文章、論文、書類等でも、レベルの低い英語の文章(もちろん文法的に間違っている文章というのではなく、知的レベルまた技術レベルの低い、お世辞にも名文とよべる代物ではないという意味である)をかなり高い頻度で目にする。

先ずは数をある程度増やさなければならないという論理はわからなくはない。事実、米国でも、昔は、女性あるいはマイノリティー人種の大学教員を増やすために、いわゆる「女性教授枠」「マイノリティー人種教授枠」というのを設けて、積極的に女性またマイノリティー人種を優先的に雇用した。その結果、今のように女性またマイノリティー人種の大学教授の数は増え、世界トップレベルの女性またマイノリティー人種の研究者の数も増えてきた。質をある程度犠牲にしてでも、数をそろえる必要があるということには筆者は賛成である。しかし、程度問題である。

【留学生の増員】
多くの留学生は、生活自体が英語化している米国、欧州やシンガポールにくらべて、日本などには生活上の不安があるため、なかなか来にくい。留学生が安心して勉学研究に打ち込める環境またケア無しに留学生を日本に誘っても、逆に生活上の不便で苦しい経験をさせてしまい、そういった悪い印象や噂がひろまることで、その結果、将来的に日本における優秀な留学生が減少してしまう。

【事務業務の英語化】
大学のグローバル化には英語で事務業務ができる人材が不可欠で、最近は英語を母国語とする外国人が事務職員として雇われるようになっている。しかし、多くの場合、事務のプロではなく、いわば「英会話学校教師」が外国人事務員として働いているのが現状である。日本の大学に必要なのは、広報や財務あるいは知財のバリバリのプロとしてのバックグラウンドのある外国人事務員であるが、そうした人たちを引っ張ってくるパワーが日本の大学に欠けている。。


日本の大学の「英語化」は、以上のような危険要素を多分に含んでいると筆者は観察している。これらの問題点をふまえて、「英語化」を行う前にもっと大切なこととして、筆者は以下の事項を提言したい。

結局のところ、国内の小中高校教育のレベルアップなしには、大学の研究・教育の根本的な質向上はあり得な2いであろう。そのためには、第一に小中高校の抜本的教育の改革(教員の質の向上も含めて)が必要である。

また、国内大学での研究成果をもっと積極的に世界へ発信し、国内大学の世界での知名度を向上させる必要がある。私の所属している米国コーネル大学だと、研究論文発表と同時に大学からプレスリリースが英語で全世界の主要メディアへ一斉配信される。私の知る限り、日本の多くの大学では、先ずは日本語で国内のメディアへのプレスリリースが優先されている。国内外を区別してプレスリリースをしているようでは、いつまでたっても国内大学の世界的地位は上昇しないであろう。

より根本的な問題として、異文化からの外国人にもうすこし生活し易い環境を整えることも必要である。筆者は25年ほど海外に住んでいたが、日本に戻ってきたときは生活する上でさまざまな困難を経験した。日本語がしゃべれる筆者でもそうなので、日本語の不自由な外国人が日本に住むのは至難の業(わざ)だろう。何が困難かというと、様々な局面での手続きの煩雑さ複雑さ不可解さである。また、最近では改善されてきてはいるが、英語での説明がまだまだ少ない。例えば日本語の不自由な外国人がひとりで銀行口座を開くのは至難の業である(4年ほど前に、生まれて始めて日本で銀行口座を開いた筆者もかなり大変であった。日本語のわかる日本人であるにもかかわらず)。


現在、日本の大学で進められている「英語化」は、あまりに安易で表面的な方法である。これらを進めてもグローバル化したいという課題を解決できないばかりか、日本の高等教育のレベル低下をもたらす危険性がある。根本的な問題点をしっかりあぶり出し、抜本的な解決法をとるように舵(かじ)を切るべきである。

2014年1月4日土曜日

2014年1月4日

Today is World Braille Day.


http://www.cbm.org/World-Braille-Day-292196.php

2014年1月3日金曜日

2014年1月3日

箱根駅伝真っ最中ですが、2008年に日本にアメリカから一時帰国した時に、両親をつれて箱根に滞在したとき、箱根駅伝の上り(往路)と下り(復路)の一部を計3時間ばかり走ってみたことがあります。上りもきついけど、下りはそれ以上に半端じゃないです。次の日は、腿がパンパンになったことを覚えています。

2014年1月2日木曜日

2014年1月2日

日帰りで広島に行ってきました。お昼を実家で両親と一緒に食べて、夕方からは広島学院の同窓会に出席してきました。何だか、とても非日常的な一日が過ごせてよかった。思ったこと:

やっぱり、僕は両親の息子だと再確認。当たり前だけど、、、。

ヤッパリ友達は大切。これも当たり前だけど、、、。


本心は、二次会、三次会と友人たちと一緒に朝まで語り明かしたいということ。(その反動が怖くて、毎年一次会のみの出席、、、)