以下2012年10日8日朝日新聞ウエブロンザに掲載の僕の論考です。掲載から6ヶ月以上たったので朝日新聞の許可を得てここにコピーします。
アルツハイマー病の予防を目指す大規模臨床試験が始まる意味
アルツハイマー病の予防を目指し、今年の終わりから来年早々に米国の政府や財団がスポンサーとなって3つの大規模臨床試験が始まる。今回の臨床試験の大きな特徴は、まだ病気を発症していない健常者が対象であるという点である。つまり、アルツハイマー病を発症するまえに治療を施し、病気にならないようにしてしまおうという試みである。これまでは、このような予防治療は感染症などのワクチン治療がほとんどであった。しかし、これからの時代には、感染症以外の病気を予防するための医学・医療の発展が必要だと思う。それは国民の生活の質の向上につながるだけでなく、高齢化社会における医療費の負担などによる経済的圧迫を回避するためにも、重要な鍵を握っていると筆者は考える。
アルツハイマー病を患う確率は、65歳以上では、5歳ごとに2倍になる。2055年には日本の全人口の40.5%が65歳以上になる(内閣府発行の2011年版高齢社会白書)ため、全人口の4〜5%(つまり20〜25人に1人)がアルツハイマー病患者ということになる。現時点で、アルツハイマー病に対する特効薬が存在しないことを考えると、これは恐ろしい数字である。
一方、近年におけるアルツハイマー病の原因究明に関する研究の発展はめざましいものがある。現在では、「脳の神経細胞内におけるベータアミロイド(β-amyloid)タンパク質の蓄積によってアミロイド斑が形成されることにより発症する」とする説が有力とされている。よって、脳の神経細胞に蓄積されたベータアミロイドタンパク質を溶解するいくつかの治療法が開発されてきた。
そのひとつが米国ファイザー社(米国ジョンソン・エンド・ジョンソン社との共同開発)の治療薬Bapineuzumab(バピヌズマブ)である。これは、神経細胞に蓄積されたベータアミロイドタンパク質を溶解する性質をもつ抗体を薬にしたものだ。しかし、1000人以上の軽度から中等度レベルの患者を対象とした臨床試験の結果、全く効果がなかったと、今年8月に発表された。
同様に、米国イーライリリー社も別の抗体Solanezumab(ソラネズマブ)について、2000人以上の軽度から中等度の患者を対象に18ヶ月の臨床試験をした結果、顕著な治療効果は無かったと、今年8月に発表した。しかし、わずかではあるが、進行抑制の効果が見られたとも発表した。
また、今年8月に、アイスランドの研究チームにより、アミロイドタンパク質前駆体の遺伝子に特定の変異をもった人は、アルツハイマー病を発症しにくいことが発見された(Nature, 488号, 96-99ページ, 2012年)。この変異があるとベータアミロイドタンパク質ができず、神経細胞にアミロイド斑が形成されないことがわかった。
これらの臨床試験や数々の動物実験の結果から、アルツハイマー病はある程度病状が進行してしまうと治療が困難になるが、症状があらわれる前に治療すれば予防できるという考えが有力になってきている。そこで、予防効果を見る大規模臨床試験が今年終わりから来年早々に始まることになったわけだ。主な対象者は、現時点では健常だが遺伝的にアルツハイマー病を高い確率で発症するグループだ。3つの臨床試験の概要を表1に示した。
これらの予防臨床試験は、これからの高齢化社会における病気発症リスクマネージメントという点において大きな意味をもつ。高齢者に多い病気は、長い年月をかけて少しずつジワジワと進行し、気づいたときには時すでに遅しといった、いわゆる潜行性のものが大多数である。がんやアルツハイマー病が、その代表例である。これらの病気の治療は、病気を発症してからではなく、病気にならないようにする予防治療のほうが効果的である、という考え方が近年提唱されている。つまり、がんやアルツハイマー病も感染症のように、病気になる前に予防してしまうほうが格段に高い治療効果が望めるとする考え方である。
近い将来、アルツハイマー病だけでなく、がんなども予防できるようになるかもしれない。その時代に備えて、鍵となる点をいくつか以下にあげる。
■ 潜行的疾患の早期発見に有効で革新的な医学的理論の創成
■ この理論に基づいた早期発見技術の開発。
■ 早期発見に基づく効果的な早期治療方法の開発。
■ 遺伝子診断などに基づく予防治療についての倫理的観点からの国民レベルでの議論の展開。
■ 一次予防(健常者の発症を予防)、二次予防(早期発見と早期治療)、三次予防(すでに発症している患者の病状悪化と再発を予防し、社会復帰を支援)戦略それぞれのバランスを考え、各々において有効な医療政策を実施する。
今回のアルツハイマー病の大規模な予防治療の臨床試験は海外で実施されるものだが、日本でも上記の点をふまえた国民レベルでの議論が必要だと筆者は考える。