2014年1月5日日曜日

2014年1月5日

以下に20131213日に朝日新聞ウエブロンザに掲載された僕の論考を既に時効ですので朝日新聞から許可を得て以下にコピー致します。


大学の「英語化」は日本の国際競争力を下げる


日本の大学の「英語化」の動きが活発になってきた。「英語化」とは、大学で英語による授業を増やすことのほか、外国人教員の増員、留学生の増員、事務業務の英語化、などの全体を指す。これらを積極的に推進するために国から各大学に巨額の税金が流れ込み、また、これらをどれくらい推進しているかによって各大学が国から評価されている。

しかし、米国の大学で長年研究教育をしてきたひとりとして、筆者はこの状況を大変危惧している。現在の日本の大学の「英語化」は、大学ひいては国の国際競争力を下げることになりかねない危険な要素を多く含んでいるからだ。

そこで、以下に筆者の観察、意見、そして提言を述べる。

【授業の英語化】
これで懸念されるのは、授業の質の低下である。筆者は、所属する奈良先端科学技術大学院大学、またその他の国内のいくつかの大学院で英語による授業を行ったことがある。その経験から言わせて頂くと、英語の不自由な日本人学生と英語を自在に操れる留学生を同じクラスで議論させても内容の濃いものにはならない。日本人の中でもTOEIC満点や海外留学経験者がいるが、それらの多くの英語能力はせいぜい意思疎通を英語でスムーズに行えるといった程度であって、専門分野を深く掘り下げて、微妙なニュアンスを使い分けて侃々諤々(かんかんがくがく)と議論をおこなえるレベルからはほど遠い。

また、筆者の知る限り、現状では、大学での英語による授業は、とにかく英語を喋ることに重きがおかれ、授業の内容を深く理解することは二の次になる傾向があるように観察している。つまり、授業の中身が薄っぺらになり、大学の授業が「英会話学校化」している場合が多い。

そもそも、英語で学問を深く学ぶ授業を受けるのは、英語を母国語とする人たちのなかでもかなり学力のある人たちである。日本語を使ってすら論理的な考え方のできない日本人大学生が、英会話レベルあるいはビジネス英語を少々身につけたところで、学問を学ぶレベルの英語授業に参加できないことは、少し考えれば誰しもわかるだろう。
筆者は大学生の時にTOEFLでほぼ満点近い点をとり、英語はかなり出来た。しかし、22才で米国大学院へ行った時には、大学院あるいは学部4年生が履修している授業について行くのは大変困難であった。落第せずになんとか授業についていけたのは、それまで日本語で身につけた学力があったからこそである。正直なところ、英語を母国語とする博士レベルのひとたちと読み書きも含めて対等に英語を操れるようになるには、大学卒業後(つまりTOEFLでほぼ満点近い点をとった後)25年あまりかかった。

【外国人教員の増員】
これで懸念されるのは、研究力・学術的能力が平均レベルあるいはそれ以下の外国人教員が増加する危険性だ。英語が母国語だからという点を重視して採用すれば、そうなりかねない。

たとえば、シンガポールなどのように外国人研究者の誘致に成功している国の例をとってみても、実際に来ているのは、米国や欧州でトップの地位を獲得できない研究者、米国や欧州でトップの地位を引退した(あるいは引退しつつある)研究者が多い。トップレベルの現役の研究者もいるにはいるが、その場合は米国や欧州に主たる研究グループを残したまま、年に数週間だけシンガポールに駐在する、といったパターンが多い。つまり、シンガポールのように英語で生活することになんの困難もない国ですらこのような状況なのである。日本は英語で生活しにくい国であることを考えれば、米国や欧州で現役バリバリのトップ研究者が常駐する可能性は限りなく低いと見なければならない。

また、現在、日本の大学にいる英語を母国語としている外国人教員の英語のレベルはそう高くないことを筆者は知っている。筆者は、日本の大学に雇われている英語を母国語とする教員の数人に、彼ら/彼女らが書く専門分野の英語の文章の添削を頻繁に頼まれている。また、大学から発行される「ネイティブチェックを受けている」文章、論文、書類等でも、レベルの低い英語の文章(もちろん文法的に間違っている文章というのではなく、知的レベルまた技術レベルの低い、お世辞にも名文とよべる代物ではないという意味である)をかなり高い頻度で目にする。

先ずは数をある程度増やさなければならないという論理はわからなくはない。事実、米国でも、昔は、女性あるいはマイノリティー人種の大学教員を増やすために、いわゆる「女性教授枠」「マイノリティー人種教授枠」というのを設けて、積極的に女性またマイノリティー人種を優先的に雇用した。その結果、今のように女性またマイノリティー人種の大学教授の数は増え、世界トップレベルの女性またマイノリティー人種の研究者の数も増えてきた。質をある程度犠牲にしてでも、数をそろえる必要があるということには筆者は賛成である。しかし、程度問題である。

【留学生の増員】
多くの留学生は、生活自体が英語化している米国、欧州やシンガポールにくらべて、日本などには生活上の不安があるため、なかなか来にくい。留学生が安心して勉学研究に打ち込める環境またケア無しに留学生を日本に誘っても、逆に生活上の不便で苦しい経験をさせてしまい、そういった悪い印象や噂がひろまることで、その結果、将来的に日本における優秀な留学生が減少してしまう。

【事務業務の英語化】
大学のグローバル化には英語で事務業務ができる人材が不可欠で、最近は英語を母国語とする外国人が事務職員として雇われるようになっている。しかし、多くの場合、事務のプロではなく、いわば「英会話学校教師」が外国人事務員として働いているのが現状である。日本の大学に必要なのは、広報や財務あるいは知財のバリバリのプロとしてのバックグラウンドのある外国人事務員であるが、そうした人たちを引っ張ってくるパワーが日本の大学に欠けている。。


日本の大学の「英語化」は、以上のような危険要素を多分に含んでいると筆者は観察している。これらの問題点をふまえて、「英語化」を行う前にもっと大切なこととして、筆者は以下の事項を提言したい。

結局のところ、国内の小中高校教育のレベルアップなしには、大学の研究・教育の根本的な質向上はあり得な2いであろう。そのためには、第一に小中高校の抜本的教育の改革(教員の質の向上も含めて)が必要である。

また、国内大学での研究成果をもっと積極的に世界へ発信し、国内大学の世界での知名度を向上させる必要がある。私の所属している米国コーネル大学だと、研究論文発表と同時に大学からプレスリリースが英語で全世界の主要メディアへ一斉配信される。私の知る限り、日本の多くの大学では、先ずは日本語で国内のメディアへのプレスリリースが優先されている。国内外を区別してプレスリリースをしているようでは、いつまでたっても国内大学の世界的地位は上昇しないであろう。

より根本的な問題として、異文化からの外国人にもうすこし生活し易い環境を整えることも必要である。筆者は25年ほど海外に住んでいたが、日本に戻ってきたときは生活する上でさまざまな困難を経験した。日本語がしゃべれる筆者でもそうなので、日本語の不自由な外国人が日本に住むのは至難の業(わざ)だろう。何が困難かというと、様々な局面での手続きの煩雑さ複雑さ不可解さである。また、最近では改善されてきてはいるが、英語での説明がまだまだ少ない。例えば日本語の不自由な外国人がひとりで銀行口座を開くのは至難の業である(4年ほど前に、生まれて始めて日本で銀行口座を開いた筆者もかなり大変であった。日本語のわかる日本人であるにもかかわらず)。


現在、日本の大学で進められている「英語化」は、あまりに安易で表面的な方法である。これらを進めてもグローバル化したいという課題を解決できないばかりか、日本の高等教育のレベル低下をもたらす危険性がある。根本的な問題点をしっかりあぶり出し、抜本的な解決法をとるように舵(かじ)を切るべきである。