2013年12月26日木曜日

2013年12月26日

日本にきてビックリしていることのひとつに「年齢による差別」。

大学の教授選でも、「XXXくんは研究の業績は素晴らしいが、まだ30才そこそこだからね、、、。」といったことが当然のごとく出てくる。人を年齢で選ぶなよ、です。僕だったら、あえて若くて研究業績がずば抜けていて将来性のある人物を教授に抜擢して活躍してもらう。

それとも、現在教授のひとたちは、自分の半分くらいの年齢の若造を自分とおなじ「教授」というランクにすることが嫌なのだろうか。


平均年齢30才とか40才とかいう教授会があったら、めっちゃカッコいいのに。男女比も1:1だったらもっとカッコいい。

2013年12月20日金曜日

2013年12月20日

以下、2013927日と20131015日に朝日新聞ウエブロンザに掲載された僕の論考です。すでに時効ですのでここにコピーします。


2013年ノーベル医学生理学賞と化学賞を大胆予測する

昨年のノーベル医学生理学賞は、ジョン・ゴードン氏(Sir John B. Gurdon)と山中伸弥さんの「細胞の初期化の発見」に対して与えられた。医学生理学賞では日本人2人目、また初めての100%日本発の発見に対する授賞ということで日本中が沸いた。今年も受賞者発表が間近に迫ってきたので、2013年の医学生理学賞と化学賞の行方を大胆に予測してみる。

今年は、医学生理学賞が「細胞のホルモン、神経伝達物質などの放出メカニズムの発見」、化学賞が「たんぱく質の折りたたみ機構をになう分子構造の発見」であると筆者は予想している。以下にそれぞれの発見について簡単に説明し、受賞の可能性のある研究者をあげてみる。

医学生理学賞:「細胞のホルモン、神経伝達物質などの放出メカニズムの発見」

われわれの身体は60兆以上の細胞が集まって成り立っている。それぞれの細胞が身勝手にふるまっていたのではわれわれの身体は正常に機能しない。細胞同士が相互にコミュニケーションをはかる必要がある。例えば、細胞内でつくられたホルモンが細胞の外に放出され、それが血管などを通して他の細胞へ作用する。もし細胞からホルモンが放出される機能に異常がおこると、身体の成長、血圧調節、心臓や腎臓のはたらき、血糖値の調節、といったさまざまな身体のはたらきの調節機能に不具合が生じてしまう。時には生死にも関わる。

また、脳においては神経細胞同士のコミュニケーションが神経伝達物質によっておこなわれている。コンピューターに例えると、電子回路の電子に相当するのが神経伝達物質である。神経細胞からの神経伝達物質の放出に異常がおこると、脳の中の情報伝達に障害がおこり、神経疾患や記憶障害がひきおこされる。また、心臓や、われわれの身体の動きを調節している筋肉などのはたらきも、脳の外にある末梢神経細胞から放出される神経伝達物質により調節されている。したがって、これに障害がおこると心機能に異常を来したり、身体の筋肉の動きを調節できなくなってしまったりする。

以上からわかるように、細胞からのホルモンや神経伝達物質の放出は身体のさまざまな機能調節に必須であり、その異常は生死に関わる。この細胞外へのホルモンや神経伝達物質の放出メカニズムを1970年後半から1980年代にかけて発見したのが、米国の2人の研究者、ジェームス・ロースマン氏(James Rothman・現エール大学教授)とランディー・シェックマン氏(Randy Schekman・現ハワードヒューズ医学研究所研究員兼カリフォルニア大学バークレー校教授)である。

この2人が今年は有力ではないかと筆者は思っている。ノーベル賞は3人まで受賞できるので、もしかするとドイツの研究者であるラインハルト・ヤン氏(Reinhard Jahn・現マックスプランク研究所所長)、また米国のリチャード・シェーラー氏(Richard Scheller・現ジェネンテック社上級副社長)、ドイツ生まれで米国研究者のトーマス・スードフ氏(Thomas C. Südhof・現スタンフォード大学教授)の内の誰かひとりも選ばれるかもしれない。彼らは、神経伝達物質の放出メカニズムの発見という観点から1980年代に大きな貢献をした。

化学賞:「たんぱく質の折りたたみ機構をになう分子構造の発見」

生命機能にとって必須の物質のひとつであるたんぱく質の設計図は、細胞内にあるDNAに刷り込まれている。DNAからRNAという物質を介してたんぱく質は細胞内でつくられる。しかし、たんぱく質はそのままでは正常には機能できない。RNAから合成された後、適切な三次元構造へ折りたたまれてはじめて正常に機能できる。アルツハイマー病、ハンチントン病、筋萎縮性側索硬化症などの神経疾患は、たんぱく質が正常に折りたたまれないことが原因であるとも考えられている。

たんぱく質がどのようなメカニズムで正常に折りたたまれるのかは長年不明であったが、1980年から1990年前半にかけての研究で、「シャペロン」と呼ばれているたんぱく質の助けで正常に折りたたまれることが明らかになった。シャペロンを発見し、シャペロンと複合体をつくることでたんぱく質が折りたたまれるメカニズムを原子・分子構造レベルで明らかにしたのがドイツのフランツウーリック・ハートル氏(Franz-Ulrich Hartl・現マックスプランク研究所所長)と米国のアーサー・ホーウィッチ氏(Arthur L. Horwich・現エール大学教授)のふたりである。

今年のノーベル化学賞は、この2人になる可能性が高いと筆者は考える。原子・分子構造レベルでの研究は故ポール・シグラー氏(Paul B. Sigler・当時エール大学教授)とホーウィッチ氏の共同研究なので、仮にシグラー氏が存命であれば彼も入っただろう。

以上が筆者の予想である。仮に今年はだめでも、数年のうちにはこれらの発見者が受賞するであろう。



何故わたしのノーベル医学生理学賞の予想が的中したか

今年927WEBRONZA掲載の筆者のノーベル医学生理学賞予想が的中した。10月7日に発表された受賞分野ならびに受賞者3人ともを予言できたわけである。残念ながら化学賞の方は予想がはずれた(もっとも「今年がだめでも数年の内には」と書いたので、まだはずれたとはいえないかもしれない)が、実は医学生理学賞にはかなりの自信があった。というのは、以下のような背景や理由があったからである。長年、米国で研究生活を続けたからこそ、見えてきたことによる推理と言えばいいだろうか。

筆者が米国で博士号を取得し、ポスドクそして自分の研究室を主宰していた1980年代後半から90年代前半に、今回ノーベル医学生理学賞を受賞したジェームス・ロースマン氏(James Rothman)とランディー・シェックマン氏(Randy Schekman)は、前者は動物細胞を使った生化学的手法で、そして後者は酵母を使った遺伝学的手法で、次から次へと細胞内たんぱく質が膜輸送によって細胞外へ放出されるメカニズムを明らかにしていった。当時、筆者をふくめた多くの研究者が、これらの一連の発見の生物学における重要性、発見自体のエレガントさ、そして他の研究グループに対する圧倒的優位性から、この2人は必ずやノーベル賞を受賞するであろうと思っていた。実際、2002年にはノーベル医学生理学賞への登竜門といわれているラスカー賞をこの2人は受賞した。それ故、次はノーベル賞だというのが、われわれ米国の研究者の間でのもっぱらの噂だった。

しかし、その栄光はなかなか訪れなかった。2009年にノーベル賞を受賞したのは、2006年にラスカー賞を受賞したエリザベス・ブラックバーン(Elizabeth Balckburn)、キャロル・グライダー(Carol Greider)、ジャック・ショスタック(Jack Szostak)だった。テロメアーを伸長する酵素であるテロメラーゼの発見の業績に対してである。2011年には、2007年のラスカー賞受賞のラルフ・スタインマン(Ralph Steinman)が免疫において重要な役割を果たしている樹状細胞の発見でノーベル医学生理学賞を受賞、また、2012年に受賞したジョン・ガードン(John Gurdon)と山中伸弥は、2009年のラスカー賞受賞者だった。このように、ロースマン氏、シェックマン氏より後にラスカー賞を受賞した研究者たちが次から次へとノーベル医学生理賞を受賞していったため、ロースマン氏とシェックマン氏はノーベル賞受賞の時期をもはや逃してしまったと思われていた。

しかし、今年(2013年)9月9日にラスカー賞の発表を聞いて筆者は驚いた。トーマス・スードフ氏(Thomas Südhof)とリチャード・シェーラー氏(Richard Scheller)の名前を聞いたからである。彼らは、神経細胞が神経伝達物質を細胞内膜輸送によって放出されるメカニズムを分子レベルで解明した研究者であり、以前ロースマン氏とシェックマン氏がラスカー賞を受賞している分野に非常にかぶっているからだ。このように同じような分野が再度ラスカー賞の受賞対象になるのはとても稀である。
その時、筆者がすぐに思ったのは、スードフ氏は筆者が以前教授をしていたテキサス大学サウスウエスタン医科大学において、1985年にコレステロールの研究でノーベル医学生理学賞を受賞したジョセフ・ゴールドシュタイン(Joseph Goldstein)とマイケル・ブラウン(Michael Brown)の愛弟子であり、この2人に大変その能力を認められていたことである。また、シェーラー氏は2004年に嗅覚の分子メカニズムの発見でノーベル医学生理学賞を受賞しているリチャード・アクセル(Richard Axel )と2000年に記憶の分子メカニズムの発見でノーベル医学生理学賞を受賞しているエリック・カンデール(Erick Kandel)の、米国ニューヨークにあるコロンビア大学での愛弟子で、両氏に大変認められている研究者である。
筆者は、スードフ氏もシェーラー氏も個人的によく知っており、また、2人の師匠であるゴールドシュタイン、ブラウン、アクセル、カンデールを個人的に大変よく知っている。米国では、この4氏の医学界における情報収集力また様々な国際賞における影響力の大きさはつとに知られている。

ここからは筆者の推測になる。おそらく10月に発表されるノーベル医学生理学賞にロースマン氏とシェックマン氏が入っているであろうことをゴールドシュタイン、ブラウン、アクセル、カンデール等が何らかの方法で嗅ぎ付け、スードフ氏とシェーラー氏をノーベル医学生理賞候補として強く推した。そして、万が一、ノーベル医学生理学賞を逃しても、ラスカー賞をスードフ氏とシェーラー氏に受賞させることで自分たちの愛弟子に栄誉を与えられると考えたのであろう。これが、2人のラスカー賞受賞を聞いて筆者がすぐに思いついたことである。

だから、自信をもってピンポイントで予想をWEBRONZAに書いたのだった。


結局のところ、ノーベル賞受賞には、飛び抜けた発見・発明を成し遂げることのほか、人脈も重要ということである。

2013年12月19日木曜日

2013年12月19日

僕にとっては「研究」はとっても崇高な宝物。それを、個人の私物化するような下品な扱いは受け入れられないし、許せない。個人の私物化とは「研究不正」「就職活動のための手段」「有名になるための手だて」などなど。

2013年12月18日水曜日

2013年12月18日

僕は、組織(僕の場合は研究グループ)をつくって運営するときは、その組織(研究グループ)の中のひとりひとりに具体的な仕事を与えて、各人がそれぞれの仕事のボスとして責任をもって仕事をやってもらう、というやり方をずっとしてきた。僕は、そのほうが各人が(責任=やりがい)という意識がでると思っていた。

しかし、日本の組織では、できるだけ責任を多くの人たちに分散することで、あるひとりの人が責任を負わなくていいように仕事も分散させる。つまり、(責任=やりがい)という方程式は日本では成り立たない。逆に(責任=萎える、酷)ということになってしまうらしい。


この日本のやりかたと僕の感覚はかなりギャップがある。なので、僕が「ひとりひとりがそれぞれの仕事を責任をもってやりましょう」といっても多くの日本人にとっては無理だし酷なことなのかもしれない。

2013年12月15日日曜日

2013年12月15日

朝日新聞ウエブロンザに2013829日に掲載された僕の論考を、既に時効なので朝日新聞社に許可を得て、以下にコピーします。


乳がん死防止法の発想転換を迫る女性研究者の最新成果

 乳がんは女性がかかりやすいがんの第1位であり、日本人女性の18人に1人が生涯で乳がんを患う(「がんの統計’09」財団法人がん研究振興財団より)。罹患者数は年々増加しており、2000年には37,389人だったが2004年には50,549人になった(「地域がん登録全国推計によるがん罹患データ(1975年~2005年)」国立がんセンター がん対策情報センターより)。また、乳がんでの死亡者数も2000年の9,171人から2008年の11,797人へと年々増加している(「人口動態統計によるがん死亡データ(1958年~2008年)」国立がんセンター がん対策情報センターより)。
 乳がんによる死亡は、肺、骨髄、脳など他の臓器への転移によることがほとんどである。そこで、触診やマンモグラフィーの定期検診による乳がんの早期発見・早期治療をし、転移を防ぐことが重要になってくる。
 しかし、多くの場合、発見時点で既にがん細胞は他の臓器へ転移している。それでもがんが微小であるため初期の場合ほぼ確実に見つからない。転移したがん細胞が発見できる大きさに成長するには10年以上かかる場合が多い。つまり、乳がん発見の時点で、がん細胞はすでに他の臓器へ転移している可能性が高く、転移したがんは10年以上発見されず、転移巣が発見された時には既に手遅れである場合が多い。死亡を避けるには転移を抑える、あるいは転移後のがん細胞の増殖を抑えることがカギになる。
 今年7月のネイチャー・セルバイオロジーという世界的に権威のある国際誌に、乳がん細胞が他の臓器に転移し、転移後どういったきっかけで突然増殖し始めるのかをマウスなどの動物実験で明らかにした、との論文が報告された。発表したのは、米国カリフォルニア州にあるローレンス・バークレイ国立研究所の乳がん研究グループである。このグループを率いるイラン系アメリカ人のミナ・ビッセルさんは、乳がん研究の世界的権威であり、女性研究者のロールモデルとしても有名だ。彼女は、大学院1年生の時に女児、その数年後に男児を出産した。現在では2人の子は成長し、3人の孫にも恵まれている。妻、母、祖母、研究者として大活躍しており、若い女性研究者から憧れられる存在だ。
 今回は彼女のグループのこの最新研究成果(Nature Cell Biology, Volume 15, pp.807 – 817, 2013)の概要を紹介し、乳がん撲滅の将来的展望を論ずる。
 研究成果の第一のポイントは、乳がん細胞は転移先の臓器にある正常な血管の細胞に張り付いた状態で存在すると見いだしたことだ。この状態では、血管から継続的に分泌されているTSP-1というたんぱく質によりがん細胞は休眠状態にあり、転移した臓器の血管に張り付いて1〜数個の細胞のまま長期間生き続ける。現在の診断技術では、このような少数の転移がん細胞を発見することは不可能である。そして、何らかのきっかけで転移先の臓器において炎症がおこった場合、血管が刺激を受け、がん細胞の増殖を促進する作用のあるペリオスティン、テネイシンC、フィブロネクティン、TGF-βといったたんぱく質を分泌し始めることも見いだした。その結果として、転移したがん細胞が増殖する。休眠状態にあったがん細胞は、転移先の臓器で炎症がおこると急激に増殖し、周りの組織を破壊し始めるのである。
 つまり、乳がんが肺などに転移しやすいというのは間違いであり、肺などの臓器は「転移後に増殖しやすい(増殖する可能性の高い)」環境なのである。肺は空気中の有害物質あるいは喫煙(受動喫煙も含む)による障害を受けやすく、それらの刺激により炎症がおこりやすい。だから、肺で乳がん細胞が増殖する場合が多いのだ。大きな転移巣ができてしまうと、臓器不全でヒトは死に至る。
 今回の発見によると、転移したがん細胞が増殖するのを抑えることさえできれば、がん細胞は休眠状態のままなので身体に害をおよぼすことはない。つまり、転移している1〜数個の乳がん細胞を休眠状態のままにしておくことで臓器不全を引き起こすのを予防する治療のほうが、がん細胞の転移を防ぐ治療より現実的であり、乳がんによる死亡を防ぐことに直接つながると考えられる。
 では、乳がん細胞を休眠状態のままにするための予防治療としてどういったことが考えられるだろうか。先ずは、臓器に炎症がおこらないようにつとめることであろう。肺であれば、能動喫煙、受動喫煙ともにゼロにすべきである。また、炎症を抑える(抗炎症薬など)予防治療も考えられるかもしれない。

 今回の研究は、あくまで動物モデルをつかった初期段階での研究成果であり、これからさらに詳細なメカニズムが明らかにされ、またヒトでの研究や臨床試験などを経る必要がある。しかし、乳がん死撲滅への大きな第一歩であることは間違いない。また、彼女のような妻、母、祖母、ひとりの人間、また研究者として多くの人たちに尊敬されている女性が、このような大きな発見をしたということも特筆されるべきである。

2013年12月12日木曜日

2013年12月12日

日本の大学に比べて、なぜアメリカの大学(例えばコーネル大学)の事務が手際よくわかりやすいかと考えてみた。

アメリカだと、それぞれの事務の部署にその道のプロで専門のひとがいて、その人にある程度の裁量と決断が任されている。そのかわり、その人に大きな責任もかかってくる。一方、日本の大学だと、「だれも責任を取りたくない」ために、「誰にも裁量、決断などの権限がないし、よって誰にも責任がない」。したがって、ひとつのことを決めるのに、大勢の承諾がいる。「大勢が承諾したのだからいいだろう」といった論理。


困ったもんですね。

2013年12月11日水曜日

2013年12月11日

僕の2013611日付けの朝日新聞ウエブロンザ論考です。すでに時効ですので朝日新聞社の許可を得てここのコピー致します。


「大学入試センター試験」の廃止を歓迎する
 政府の教育再生実行会議(座長=鎌田薫・早稲田大学総長)が大学入試センター試験を5年後をメドに廃止し、高校在学中に複数回受けられる全国共通の「達成度テスト」(仮称)を創設して大学入試に活用する検討を始めた。筆者は共通一次と呼ばれていた30年以上前から、こういう試験に大反対であったので、「やっと」という気持ちが強い。高校在学中に複数回受けられ、受けた中で最も良い成績を受験したい大学へ提出するという方式は、米国で90年間弱続いているSAT(Scholastic Assessment Test)とほぼ同じである。そこで、米国の大学で長年、教育研究に携わってきた経験をもとに、米国のSATとその大学入試への活用方法を紹介すると同時に、日本で始まるであろう「達成度テスト」(今流行の言い方でいえば「日本版SAT」)への筆者の意見を述べたい。
 SATCritical Reading, Mathematics, Writingの3つのセクションからなる。これらは、日本語で言い換えればそれぞれ、読解力、算数、作文である。毎年7回実施されている。その中で受けたいときに受けて、最もよいスコアを受験したい大学へ提出する。全米の総受験者の正解率の中間がだいたい6割〜7割くらいになる。つまり、基礎的な問題ばかりで、まじめに勉強している高校生なら8〜9割は確実に正解できるレベルのテストである。したがって、日本で今まで行われてきたセンター試験のように1点を争うようなテストとは根本的に違う。基礎的な学力を身につけているか否かを判断するための「ひとつの材料」である。
米国の大学入試では、SATのスコアはひとつの指標に過ぎない。高校の成績、これまでの活動(ボランティア活動、自由研究、コンテストなどの受賞歴、スポーツなど)、複数の推薦状、小論文、面接、などを総合して、それぞれの大学がそれぞれの大学の教育方針や運営方針に基づいて適切と判断された学生を合格にする。極端にいえば、大学への合否は、大学の「独断と偏見」により判断される。
 「日本版SAT」のセンター試験とのもっとも大きな違いは、年に複数回受験することができ、その中で最も良いスコアを大学へ提出できる点だと筆者は考える。これは、とても良いことである。これまで、中・高・大、そして就職において「一発勝負」、そして一度落ちこぼれたら二度と這い上がれないようになっている(としか思えない)日本社会においては、大改革であることは間違いない。とても良い方向転換である。一方、「日本版SAT」が日本に定着するにはいくつかのハードルをクリアする必要があると考える。

■   「日本版SAT」は入学試験ではなく、学力検査であるという大前提を認識し理解する。
たとえ複数回受けられるようになったとしても、「1点でも良い点をとる」という指導を高校、予備校、親が行うと何も変わらない。これを防ぐには、大学側が「100点満点で60点だと難しいですが、80点であろうと85点だろうが合否にはまったく関係ないですよ」ということを公言することが重要であろう。

■   各大学がそれぞれの大学の独自の教育方針、運営方針を自由に打ち出し、それらに適した学生を選ぶことのできる独自の選抜方法を施行する。
これは大学にとって大きな負担となるが、「人」「将来の人材」を選ぶのであるから、時間と労力をかけて当然である。大学の最重要課題である。これを全ての教員に押し付け、教員が「また雑用が増えた」と愚痴をこぼすことのないように、「リクルーター」教員のような専門職を各大学でつくり組織化して取り組むべきである。

■   「公平性が保たれるのか」といった日本で定番の苦言を徹底的に排除する。
「日本版SAT」に対しての最も大きな反対意見のひとつに「公平性が保たれるのか」というのがあると報道されている。これは、高校の施設が試験会場となることや、複数回受験できることに対する意見であろうと想像するが、いい加減、何かと言えば「公平性」という言葉に執着する国民性からそろそろ脱皮するときではなかろうか。「公平性=ひとつの物差し」ということに気づいてもらいたい。現代を生き抜くには多様性が必要不可欠である。「公平性=ひとつの物差し」はそのような時代に逆行する。ひとりの人間にとっての「不公平」は他人にとっては「公平」である可能性があるということにそろそろ気づいてほしい。それを大前提に社会をつくっていくためには、ある意味「不公平な受験制度」は必要ではないかと筆者は考える。

 筆者は「大学入試センター試験」の廃止と「日本版SAT」の創設に大賛成である。しかし、以上の点がクリアされないまま「日本版SAT」が開始されると、結局何も変わらず、表面的な入試の方法が変わっただけに終わってしまう。「出願者の個性や適性を多面的に評価して合格者を決める」として始まったAO(アドミッション・オフィス)入試もいまだに定着せず、逆に廃止の方向に向かっている大学が多くある。「日本版SAT」もAO入試の二の舞になりはしないか。筆者はそれを恐れる。日本にとって、大学改革はきわめて重要な課題だ。是非、入試が改革され、真の人材教育が日本でも始まることを痛切に望む。


2013年12月10日火曜日

2013年12月10日

何かがうまくいくとみんなのおかげ、うまくいかないとまわりが悪い。こういうのが蔓延しているけど、じゃあ自分はどうよ、という自己責任・自己管理に関しては誰もなかなか問われない。これはただ単に未熟なだけでしょ、と思わざるおえない。

2013年12月9日月曜日

2013年12月9日

僕は、「忠犬ハチ公」を育てる教育はしたことないし、興味もこれまで全く無かった。

しかし、「忠犬ハチ公」を育てることも、日本社会においては必要悪的な教育なのかな。

「忠犬ハチ公」を育てる教育をすることで、それに猛烈に反発する「有望」な人材も育つのかもしれないのかな。また、「忠犬ハチ公」になることで救われる若い人たちもいるのかもしれない。


この点に関して、もう少しいろいろな側面から考察してみようと思う。

2013年12月7日土曜日

2013年12月7日

今日は東京。今回は、新幹線ではなく、関空から羽田へ飛行機。

2013年12月4日水曜日

2013年12月4日

朝日新聞ウエブロンザに2013417日掲載された僕の論考を、すでに時効なので朝日新聞から許可を得て、以下にコピー致します。


国立大学法人の教員にもある「追い出し部屋」

 「追い出し部屋」。会社から戦力外とされた社員に、まったく仕事を与えなかったり、本人の意に沿わない仕事をさせたりして、会社に残る気持ちをなくさせ、自主的に退職させようとするために、設置された部署のことをいう。国による、その実態調査が最近おこなわれており、違憲性を含めてさまざまな議論がなされている。
 じつは、「追い出し部屋」は民間企業だけではなく、大学にも存在する。私自身、日本の国立大学に4年前に着任し、その実態を目のあたりにし、その陰湿性に大きなショックを受けた。そこで、筆者の知っている範囲で、国立大学における大学教員の「追い出し部屋」の実態とその問題点を論ずる。
 日本の国立大学における「追い出し部屋」の問題の根本にあるのは、いまだに、教授−准教授(2007年以前は助教授と呼ばれていた)−助教というピラミッド型が存続し続けていることである。すなわち、准教授も、助教も、教授の教育・研究を「助ける」ことを職務としているため、教授が異動、あるいは定年退職した後は、宙ぶらりんの状態で大学に残る場合が多いのである。たとえ、新しい教授が着任しても、前任の教授が雇った准教授、助教は「追い出し部屋」配属のような扱いをうけ、できるだけ早く他へ転出してもらい、新任の教授が、自分の欲しい准教授、助教を雇用できるように計らわれる(国立大学の法人化以降、教員人事は大学レベルでおこなわれるため、教授が准教授、助教を雇用することは書類上ないのだが、実際には、教授が雇いたい准教授、助教を、大学が任命するといった形式がとられる場合が多い)。
 2007年に学校教育法が改正されて、大学におけるピラミッド構造は解消されたはずだった。助教の職務について、改正学校教育法第92条の8項では「専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の知識及び能力を有する者であって、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する」と定めている。教授や准教授の研究、講義を補助する義務はなく、講義ができる専任教員としてカウントされているのである。
 2007年より前は助手はもちろんのこと、助教授も「助教授は、教授の職務を助ける」と規定されていた。つまり、法律の定義上、助教授の職務は、研究への従事ではなく教授の補佐であった。しかし、2007(平成19年)4月1施行の「学校教育法の一部を改正する法律」によって、「准教授」という名称とその定義が定められ、「助教授」という職階は廃止された。現在の学校教育法927項では、「准教授は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の優れた知識、能力及び実績を有する者であって、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する」と定義されている。よって、教授を「助ける」職務ではない。
 つまり、形式上は准教授、助教は、教授からは独立したポジションである。ところが、実際には、いまだに、准教授も助教も、教授の担当する教育、また教授が代表をつとめる研究プロジェクトの一部を担当する場合が多い。学生の教育にいたっては、いまだに准教授は学生の主指導教官になれない場合が多い。最近、独立型(テニュアトラックともいわれる場合がある)准教授というポジションができ、その場合は、教授とは完全に独立し、教育、研究を行う場合もある。しかし、助教の場合は、ほとんど教授の補助である。学生の研究指導も、教授から独立して行うことはほとんどないし、主指導教官にもなれない。
 このような実情では、特に、助教は教授が異動、定年退職をした場合、教授不在となり、学生の研究指導も行うことができない。授業も教授の補佐としてやっていたので、教授不在となると授業を受け持つこともほとんどない。自分で外部研究費をとってきている場合は、その研究を行えるスペースを与えられ、そこで、細々と研究をすることになる。学生を指導する機会は極端に減る(または、皆無)。まさに、「追い出し部屋」である。
 この状態を改善するには、教授−准教授−助教というピラミッド構造を完全撤廃し、それぞれ独立して、学生の教育、研究に従事するシステムをつくるしかない。教授、准教授、助教は、「教員間の上下関係」ではなく、「個々人のキャリアラダー(昇進のはしご)」として位置づけされるべきである。
 それがなかなか実現しない理由の一つは、教授会の存在である。大学では、教授会が大きな権限をいまだに持っており、そこで様々なことが決定され、その決定を大学が承認するという形がとられている。教授会メンバーは教授(准教授が含まれる場合もある)で、助教は含まれていない。当然、教授は自分の既得権を守ろうとするため、自分たちの立場を脅かすようなことを決定しない。よって、助教(または准教授)は、いつまでたっても「教授の補佐」のままである。よって、この問題を解決するには、教授会の権限を無くすか、縮小する必要がある。
 民間企業での「追い出し部屋」の実態を、現在、国が調査している。その結果に基づいて職場環境の改善を、国が先導して行うというのが目的である。しかし、そういっている国の機関の一つである、国立大学法人の教員にも、上述した「追い出し部屋」のような状況が蔓延している事実に目をつぶって、民間企業のみ対象にするのは理にかなっていない。いわゆる、「自分のことは棚にかげて」ということである。

 筆者は、国にお願いしたい。即刻、国立大学法人における教員の「追い出し部屋」実態調査を開始し、その結果に従い、教員の職場環境改善につとめるよう、全国立大学法人に勧告を発令して頂きたい。

2013年12月2日月曜日

2013年12月2日

朝日新聞Webronza2013322日)に掲載された僕の論考です。すでに時効なので、朝日新聞の許可を得て、以下にコピーします。


高校生の科学研究から見える日米の大きすぎる差

 高校生による科学研究コンテストとして米国が世界最高峰と誇りにしている「インテル・サイエンス・タレントサーチ(Intel Science Talent Search: Intel STS)」の2013年の最終結果がこのほど発表された。STSは、1942年にウエスティングハウス(Westinghouse)がスポンサーとなって始まり、1998年からは、現在のインテルがスポンサーになった。優勝者には賞金$100,000(約950万円)が奨学金として授与される。また、約70年の歴史の中で、このコンテストの入賞者から、ノーベル賞受賞者7人、数学のノーベル賞といわれているフィールズ賞受賞者2人のほか、世界の各分野の天才たちに与えられるマッカーサー財団フェローシップ受賞者(11人)や米国科学アカデミーメンバー(30人)も輩出している。まさに、世界最高峰の「科学者の卵」発掘コンテストに恥じない実績である。
 日本国内でも、高校生科学技術チャレンジ(Japan Science & Engineering Challenge:JSEC)が2003年から行われている。朝日新聞社の主催で始まり、2011年からテレビ朝日も主催者に加わった。JSECは、上記のSTSの国際版である「インテル国際学生科学フェア(The Intel International Science and Engineering Fair: ISEF)」の国内予選をも兼ねている。
 筆者は、米国で研究・教育を行っていた25年あまりの間に、数名の高校生にSTSにエントリーするための研究指導をした。また、日本に来てからの3年間あまりで、JSECへ向けての研究指導を数名の高校生におこなってきた。両方の経験ならびにSTS2013年)とJSEC2012年)の入賞研究を比較すると、日米のあまりに大きな違いが見えてくる。

 まず、STS2013年)入賞研究で、筆者の専門分野である生命科学・医科学に関連するものの一部を紹介する。

・  「持続可能なエネルギー源としての藻類バイオ燃料の効率化:脂質合成増強種の人工的選択」(優勝)
・  「バイオインフォマティクスによるヒト疾患に関わる内在的異常タンパク質の同定と解析」(2位)
・  「グローバル神経ネットワーククラウドサービスを用いた乳がん診断」(8位)
・ 「ガン治療新規ターゲットとしてのKLF6ガン抑制因子の翻訳後調節部位の同定」(入賞)
なお、テーマ名は英語原文を筆者が意訳した。

 一方、JSEC2012年)では以下のようなテーマが入賞した。

・   「ゾウミジンコの走性に関する研究」(科学技術政策担当大臣賞)
・   「闘蟋(とうしつ):コウロギの闘争行動解析」(花王賞)
・   「オヤニラミの闘争行動を引き起こす刺激」(テレビ朝日特別奨励賞)
・   「サンショウウオの飼育下での繁殖方法の確立を目指して」(審査委員奨励賞)

 これらの入賞研究テーマを比べるだけでも、その差は明らかだが、以下に筆者の経験を踏まえた考察を述べよう。

【2人以上のグループ研究(日本)vs. 単独個人研究(米国)】
 それぞれの入賞研究をおこなった高校生を調べると、日本のJSEC2012年)は、すべてが2人以上の高校生によるグループ研究である。一方、米国のSTS2013年)入賞研究の全てが、ひとりの高校生による個人研究である。この違いは特筆すべき点である。
 筆者が米国で指導した高校生全員が、個人研究であった。グループ研究はひとつもなかった。一方、日本で指導を引き受けたJSECやその他の研究コンテストへのエントリーを目指した高校生の研究のほとんどがグループ研究である。
 また、米国の場合、高校生が自分で、筆者のような大学などの研究者に直接、「研究をさせてくれ」とコンタクトをとってくる。しかし、日本では、すべての場合、学校を通じて、高校生の研究指導のお願いがくる。米国では、高校生は、いわば准大人とみなされ、少しずつ自己責任を身につけさせ始められる時期である。つまり、徐々に大人になるようにしむけられる。しかし、日本では、高校生は、まだ子供であり、守って当然、守られて当然、という風潮がある。
 日本では、大学(あるいは大学院)を卒業するまで「学生=子供」として「取り扱い注意」のレッテルが貼られる。しかし、就職と同時に“突然”大人として扱われ、大人であることが要求される。また、社会に出てからも、日本人はどうもひとりでの単独行動を、なかなか行わない、行えない、行うとまわりからとがめられる(協調性に欠けるなどの理由から)、という傾向がある。
 これらの、日米間の違いが、高校生の研究を行う単位(つまり、グループ研究と個人研究)の傾向にも現れているのではないかと筆者は考える。

【身近にある題材(日本)vs.最先端の研究題材(米国)】
 研究テーマのタイトルから歴然とみえるのは、日本のJSEC2012年)入賞研究のほとんどが、生活の身近にあるものを題材としていることだ。一方、米国のSTS2013年)入賞研究のほとんどが、そのまま科学専門誌の論文タイトルとして通用すると言う点である。この違いには、いろいろな要因があると考えられるが、一番の理由は、やはり、日本では、高校生は子供だ、とみなされ、子供らしい身近な題材を取り上げることが周り(つまり、指導、あるいは評価する側)から好まれるからだと、筆者は考える。一方、米国では、高校生は准大人であり、STS2013年)へエントリーするような高校生は「科学者の卵」であるとみなされ、審査する側も、そういった目で評価するのだと、筆者は考える。

【不思議からはじまり、不思議におわる研究(日本)vs. 不思議からはじまり、社会への還元をめざす研究(米国)】
 日本のJSEC2012年)入賞研究は、好奇心を追求するのみに徹底しているように感じる。筆者の研究室で高校生たちを指導していても、日本の高校生の多くは、純粋に「不思議」という思いをそのまま素直に研究し、それで満足しているように思う。一方、米国で高校生を指導していて感じたのは、彼ら彼女らも最初は「不思議」といった好奇心から研究を始めるのだが、常に、その研究が最終的に社会へどのような形で還元されるのかを考えていることだ。また、周りも、高校生にそのように考えることを求めている。したがって、米国のSTS2013年)では、バイオエネルギー、病気治療など、応用先が明白な研究テーマが多い。
 この日米間の違いに関しては、賛否両論であると感じる。大発見は、かなり高い確率で、思わぬところから起こる。したがって、あまりにも応用を意識しすぎると、思わぬ大発見は起こりにくくなる。一方、大学や研究所での研究は、多くの場合、国民の税金でおこなわれるものであるから、それなりに、社会への還元が求められるのは当然である。
 筆者は、両方のタイプの研究が必要だと思うが、高校生なら、少しでもよいので、それぞれの研究の社会への還元の可能性を、自分で説明できるようになることは必要だと考える。


 以上、日米間には、それぞれの文化や精神的・社会的構造などの違いから、高校生による研究ひとつをとっても、大きな違いがあるとわかる。この違いを、「日本は日本だから」と維持したままでいいのだろうか。グローバル化した社会においては、ひとりひとりが大人として行動できることが、前提となっている。だから、日本も高校生ぐらいから少しずつ段階的に「責任感ある個人としての大人」へと成長できる社会構造に変わるべきではないかと筆者は考える。

2013年12月1日日曜日

2013年12月1日

僕の2013227日掲載の朝日新聞Webronzaの論考です。すでに6ヶ月以上前のものなので、朝日新聞に許可を得て以下にコピーします。

iPS細胞を用いた臨床試験と「人体実験」を分けるもの

 目の難病である加齢黄斑変性に対して、iPS細胞を用いた臨床試験が始まる見込みになった。神戸市の先端医療センターの倫理委員会が、「安全性についての結果を臨床委員会に報告する」という条件付きで、同センターでの臨床試験を承認したのである。国が承認すれば、世界で初めてのiPS細胞を用いての臨床試験がiPS細胞の発明された日本で始まる。この臨床試験は安全性の確認が主な目的になっている。
 そう聞くと、「安全性もまだ100%わからないのに、ヒトに直接つかって、安全性を確認しようとしているのか。これは、人体実験ではないか」という素朴な疑問が出てくるかもしれない。そこで、再生医療を含めた生命科学の研究をしている立場から、人体実験と臨床試験の違いは何なのかについて、筆者の意見を述べる。
 まず、ヒトで試す前に、動物で安全性を確認すればよいではないか、という意見があると思われる。もちろん、そうである。iPS細胞の場合も、数えきれないほどの動物実験で安全性、また、有効性を確認した。すべての薬、治療法において、培養細胞、動物をつかって安全性、有効性をまずは確認する。しかし、残念なことに、多くの薬が、培養細胞や動物では、有効であり、安全性も確認されたにも関わらず、ヒトではまったく効かない、あるいは毒性が出てしまう。
 先日、国際的に評価の高い、米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences,)に、これまで日常的に薬の効果をみるために使われてきた動物(ネズミ)と、ヒトでは、同じ炎症によって引き起こされるさまざまな疾患に対しての遺伝子レベルでの応答にほとんど共通性がないことが報告された。実際、病原体によって引き起こされる全身性炎症反応症候群(SIRS)のひとつである敗血症でも、これまで動物実験で効果があるといわれた150以上の薬の全てがヒトではほとんど効かないことがわかっている。アルツハイマー病も動物実験では効果のある薬が数多く存在するが、いまだにヒトのアルツハイマー病を治すことのできる薬は存在しない。つまり、動物で効果のある薬の大部分がヒトでは効かない、といっても過言ではない。
 したがって、動物実験で毒性が無く、効果があると確認された薬や治療法も、ヒトの疾患で効果があるか、毒性が無いか、ということは実際にヒトでテストするまで解らないという側面がある。動物実験の段階で、対象となるヒトの疾患と同じような症状を持つ動物モデルを選び、長い年月と膨大な研究開発費を使って、大学、研究所、製薬会社は、最も効果があり毒性の少ない「可能性」をもった薬・治療法を選別していくのである。それらの結果をもとに、ヒトの患者に対して臨床試験を行うための許可を、臨床試験を行う機関の倫理委員会へ申請し、そこで許可がおりると、国に、臨床試験開始を求めた申請を行う。国の専門機関が、その申請へ許可を出してはじめてヒトを対象とした臨床試験が開始される。
 ここまで書くと明らかなように、臨床試験を行う機関の倫理委員会、また、最終的な臨床試験開始の許可をだす国の判断は相当重大な責任を持つ。この段階での審査がしっかりと行われないと、「臨床試験」でなく、「人体実験」となってしまうのである。
 これらの機関では、「人体実験」とならないために、倫理的に正当化出来る治療法なのか、その薬・治療法はヒトに対する毒性の可能性は限りなく低いのか、ヒトに対して治療効果の可能性は高いのか、もっと安全で効果的な代替薬・治療法は存在しないのか、といったことを含めて、客観的データに基づいた多面的な審査を慎重に行う必要がある。
 例えば、加齢黄斑変性の臨床試験についていえば、現段階では不透明なiPS細胞のガン化のリスクを冒してでも治療することが倫理的に正当化できるか。また、すでに米国バイオ企業アドバンスト・セル・テクノロジー社が2011年以来、胚性幹細胞(ES細胞)により作成した網膜細胞の移植による臨床試験を始めており、目がほとんど見えない患者の視力を回復させることに成功したとの報告もなされている。この結果は安全性を確認するための試験の一環として出てきた予備的なデータに基づく報告であるので、今後のさらなる臨床試験の結果を見守る必要があるが、現段階で、ES細胞よりも、iPS細胞を使うことが多面的にみて正当化できるか。これらを含めた多くの倫理的、また、実質的な問題を審査機関は慎重に審議しなければならない。
 筆者のこれまでの観察によると、どうも「ノーベル賞をとった研究なのだから、きっと素晴らしい治療方法で必ずや効くに違いない」という支配的国民感情が存在し、それをマスコミが煽っているような気がしてならない。また、「これはオールジャパンのプロジェクトなので、なにがなんでも成功させ日本がiPS細胞を用いた再生治療で世界一になる必要がある」という尋常でない強迫観念のようなものさえ感じられる。
 我々は、「成熟した細胞を初期化することが可能であることを発見した」ことに対すノーベル賞がガードン氏と山中さんに授与されたのであって、iPS細胞を用いた再生治療に対して与えられたものでは無いということをしっかり理解する必要がある。
 この辺をふまえて、これから、次から次へと出てくるであろう、iPS細胞を用いたさまざまなヒト疾患治療のための臨床試験の申請を、冷静かつ客観的に、また慎重に(しかし、本当に必要と認められる場合には“無駄に慎重”になるのではなく、治療を待ち望んでいる患者さんたちのためにも“速やかに”)審査して頂きたいと、筆者は強く願う。

2013年11月29日金曜日

2013年11月29日

僕は、野菜と果物を毎日かなり大量に摂取します。


半年前までは、いつも地元の八百屋スーパーとか生協のデリバリーで、野菜や果物を購入していたのですが、4月ころに森ノ宮駅に隣接してイオン系のKができたので、ここ数ヶ月はKで野菜や果物を時々買っているのでが、どうも野菜や果物の新鮮味とか持ちが悪い。やはり、全国チェーンで売っている野菜とか果物は質が悪いのだろうか。これからは、野菜や果物、その他の生ものは生協か地元の八百屋で買います。

2013年11月27日水曜日

2013年11月27日

この週末はThanksgivingTurkey Trotとかメチャ懐かしい。

2013年11月25日月曜日

2013年11月25日

今朝の読売新聞朝刊(大阪本社版)の「科学」の欄に、佐藤ラボの研究成果が紹介されました。


2013年11月19日火曜日

2013年11月19日

いま、暇な時にレジャーで、ポラロイド研究所の歴史の本をちょこちょこ読んでいるのだが、とてもためになることがいろいろと書いてある。そこでひとつ。


組織やグループ全体のレベルを上げるには、「下のできの悪いひとのクビを切るのではなく、今いる一番できる人よりもっとできる優秀な人を新たに加える」ということ。つまり、「下を削ぐのではなく、上に積み上げる」と組織やグループ全体のレベルが上がる。

2013年11月18日月曜日

2013年11月18日

米国のトップレベルの大学だと、日常的に億、数十億、数百億(このレベルは稀)、の寄付がある。日本の大学では稀。京大、東大といった大きな大学でも稀。この、米国と日本の大学の決定的な違いは何なんだろうか。この点に関しては、あまりにも差が大きすぎる。この大学における差は、「次世代の育成」に大きく響いてくる。日本でこの点なんとかならないのだろうか。

2013年11月17日日曜日

2013年11月17日

少しずつ時差ぼけがなおりつつあるのを感じる。もう一週間もすると、もとにもどるかな。一般にいわれているのが、時差1時間につき、その時差に完全に適応するのに1日かかると言われている(誤差+/-50%)(すごい誤差ですが)。


今日も、早朝大阪城公園を散歩。普段は走っているコースをたまに歩くと違う風景が見えてくる。

2013年11月16日土曜日

2013年11月16日

今回は、コーネルで大学院生さんたちと接する機会がとても沢山有った。コーネル大学に来るような学生だと、就職しようと思えば、けっこう何時でも就職できる。なので、大学院に来る者は、就職できるけど、あえて大卒で就職しないで、博士をとるために大学院に来る。ちゃんと目的を持って大学院に来る。


どこかにいる、「大卒で就職出来なかったからとりあえず大学院にいく」「まだ自分で何やりたいかわからないからとりあえず大学院にいく」といった「とりあえず大学院生」は、とても少ない。

2013年11月12日火曜日

2013年11月12日

Ithacaでは昨夜雪がパラパラと降って、今朝はうっすらと雪が地面に残っていた。今日は、かなり冷え込むらしい。

2013年11月11日月曜日

2013年11月11日

こっちに(コーネル大学)にしばらく滞在しいて、改めて感じたけど、日本の人は他人のことを気にするひとが多過ぎ。日本では、こそこそと僕のことを裏で嗅ぎ回っとるやつらがわんさかおるが、「暇だね」としか言いようがない。こっちでは、そんな暇な奴はほとんどおらん。大切なのは、自分がどうかであって、他人との比較で自分がどうかじゃないんですけど。

2013年11月10日日曜日

2013年11月10日

コーネル大学に滞在してこちらの学生さんたちを観察したり接触して思った日米の大学生の意識の違い。

米国の学部生:授業料を払って学ばせてもらっている。

日本の学部生:授業料を払っているんだから教えてもらって当然。

2013年11月9日土曜日

2013年11月9日

コーネル大学のキャンパス内にあるひとつの滝です。

2013年11月8日金曜日

2013年11月8日

今回、ERATOに採択されて、僕のプロジェクトが大成功するように、いろいろなかたちで応援してくださる方々がいらっしゃる。ありがたいことである。大感謝です。

一方、「なんで、佐藤さんみたいなのがERATOに採択されるんだろう、プロジェクトが大失敗して、佐藤さん落ちるところまで落ちればいいのに」というようなことを陰でコソコソ言い回っている方々もいらっしゃる。


世の中、いろんな人がいるもんですね。

2013年11月6日水曜日

2013年11月6日

アメリカやヨーロッパに長く住んだり、頻繁に訪れていると、「日本は、おもちゃの国レジャーランド」だと、とても感じる。

2013年11月5日火曜日

2013年11月5日

今日も一日中コーネル大学でいろいろなファカルティーと研究、政治、芸術、起業(ベンチャー)、教育の話しをいっぱいした。やはり、僕にはこっちの空気のほうがぴったりあってると改めて確信。一日中、好き放題に気兼ね無しに話しができる同僚が沢山いる。本当に、何も気にしないで話しができるのはありがたい。遠慮する必要がほとんど無い。

その中で、大学院生の話しがでた。コーネル大学の大学院(注釈:いわゆる理系のことしか知らないという前提)では、大学院生には全員、授業料と生活費が支払われる。最初の1〜2年は大学から支払われるが、それ以降は所属研究室の研究費から支払われる。

こういうシステムだと、ろくに研究費をとってこれていない研究室は学生をとれない。つまり、研究力のないラボは学生をラボに引き受けて研究をとおした教育はできないという自然淘汰が生まれる。

また、研究費から学生の授業料と生活費を払うのだから、1〜2年のトレーニング後に研究費をとっている対象プロジェクトに貢献できるようになれそうにない学生は入学させない。能力のないモーチベーションの低い学生をラボに引き受ける必要も無くなる。

さらに、研究費から大学院生に授業料と生活費を支払うことで、PIと大学院生の間には雇用関係が生まれる。なので、大学院生は責任をもってプロジェクトを遂行することが求められ、PIも必死で大学院生がプロジェクトに貢献できるように教えるし育てる。このようなPIと大学院生の関係において「学生なんだから」といったふざけた戯言は許されない。お互いに真剣勝負である。


それにしても、こちらの食べ物の量は半端じゃない、、、。

2013年11月4日月曜日

2013年11月4日

New YorkIthacaにあるコーネル大学にやってきました。久しぶりです。


2013年10月31日木曜日

2013年10月31日

以下、2013114日、15日に掲載された僕も朝日新聞Webronzaの論考のコピーです。既に時効なので朝日新聞の許可を得てここにコピーします。


「学者」を絶滅危惧種から救え
 このままいくと50年後には日本の大学から「学者」はほとんど消滅し、「先生」しか大学にはいなくなる。新年早々、暗い話で申し訳ないが、この予想は今のままではかなりの確率で的中すると筆者は自信をもっている。何故なら、筆者が日本を離れて米国に行った1985年当時と2009年に日本に戻ってきてからを比べると、日本の大学において、学問を専門とする人たちが激減していると見受けられるからである。逆に、職務内容的には小・中・高の先生と大差ない大学教員が激増しているように筆者は観察している。日本では「学者」は絶滅危惧種になっているのである。以下に、帰国して3年余りの体験と観察から引き出された考察を述べる。続けて、日本の大学から学者が消滅してしまわないようにするための提言もしよう。
 先ずは、「学者」の定義をしておく必要がある。広辞林によると「1学問にすぐれた人2学問を専門にする人」とある。英語でいうと ”Scholar” である。真の学者は「学問にすぐれ、かつ学問を専門にする人」であろう。いつの時代にも学問にすぐれたひとはある一定の割合で存在する。しかし、今の時代には、たとえ学問にすぐれた人も学問を専門とすることができなくなっている、あるいは学問も専門としなくなったと思う。なぜか?大きく2つの理由があると筆者は考える。「時間」と「資質」の問題である。


 今の時代は、大学教員が学問にさける時間が激減している。つまり、学問をする時間が他のことにさかれてしまっている。この「学問以外のこと」を以下に列挙する。

【学生の生活指導】
 大学教員が学生に学問を教授するのは当然の職務であるが、現在は多くの大学で教員が学生の「生活指導」に相当の時間を費やしている。例えば中部大学のホームページには、「大学生活で困っていること、例えば、学費、生活費の問題、奨学金の申込み、健康状態・家庭・恋愛等の問題をはじめアルバイトや下宿生活の問題、友人関係のトラブル等何でも指導教授に相談してください」とある。
 大学教授が学生の「恋愛の問題」まで相談にのっていたのでは、学問をする時間がなくて当然である(個人的には、学生の恋愛問題の解決ができる大学教授はほとんど皆無であるし、大学教授なんかに相談すると恋愛問題が逆に悪化すること間違いないと思っている)。
 筆者のまわりでも、教授が自分の研究室の学生のさまざまな悩みを辛抱強く聞いてあげ、必要ならば学生のカウンセラーとの面談に同伴するということを日常的に耳にする。また、多くの大学で、学生の学業、生活面での問題を、学生の親御さんと面談し(いわゆる、小・中・高の「三者面談」である)解決する努力が大学教員に求められている。
 さまざまな大学の教員たちの話を聞いてみると、日本の大学(および大学院)では、5〜10人に1人の割合で学生が精神的に病んでしまうらしい。これは、大きな社会問題であり、解決すべき問題ではあるのだが、その問題を大学教授などの教員が直接かかわり、カウンセラーなどの専門家と一緒に解決していくことが求められているのである。当然、これらは簡単には解決できず、多くの時間をとられる。結果として学問をする時間が限られてしまう。

営業・宣伝活動
 今日の大学には「社会に開かれた大学」が要求されている。これは、とても良いことであり、大学も社会の一部なので、「開かれた大学」は大学の義務であり当然であると筆者も考える。また、少子化にともない、各大学は、それぞれの存続のために学生の「呼び込み」に必死である。これらが、日本特有の「やり過ぎ文化」「俺も私も文化」と相乗し、どこの大学もこぞって縁日を彷彿させる「オープンキャンパス」なるものを毎年数回施行している。そこでは、大学内における研究成果発表のポスターが屋台のように並び、そこで学生、教員が必死に「呼び込み」を行っている。まるで、縁日、お祭り、学園祭である。オープンキャンパス以外にも、大学教員は学生集めのため、入試説明会などにかり出される(入試説明会のために地方への出張もありえる)。同時に、学生の大学(大学院)受験に関する様々な相談にも親身にのることが教員に要求されている。
 また、研究成果が論文、学会で発表されるごとに、大学で記者会見が行われ、その研究をした教員がかり出され、報道陣に説明することが求められる。これには、教員側も必死である。米国からきた筆者は驚いたが、それには理由があることが最近判明した。それは、大学教員が国から頂いている研究費の毎年の報告書に、「成果」として、論文発表・特許申請以外に「新聞、テレビなどのメディアでの報道」をリストアップされることが求められているのである。筆者は、自分自身の研究報告書を国に提出する段階になって、このことを初めて目にし、自分の目を疑った。このようなことをしているから、去年の「iPS/森口事件」のようなことがおこるのだと納得した。日本では、大学職員・研究者自身が、研究費獲得のため、論文・学会発表と同様に、新聞、テレビなどのメディアで報道されるように必死なのである。もちろん、報道のための原稿、資料作りなどは大学教員自身が行うのである。とても時間のとられる作業である。



 以上が「時間」の問題だ。「資質」の問題というのは、大学教員自身が学問をしなくなったことを指す。

 今日の大学教員は、目先の成果のみにとらわれ、知名度の高い学術雑誌に論文を発表し、研究費を獲得してくることに集中しすぎていると筆者は懸念している。もちろん、それはそれで大切で重要なことなのだが、それらのみに集中し、学問の造詣を深めるということを疎かにしている傾向が、今日の大学教員は強すぎる。そのような大学教員をみて育つ学生が「学者」に育つ訳がない。また、そのような「学問をしなくなった大学教員」は学生に知識や小手先のスキルを教えることはできても、学問を教授する経験や能力はなくなってきているのが現状である。

 これは、日本の教育全体とも深く関わる問題である。小・中・高では受験勉強が常に念頭におかれて教育がなされており、大学・大学院では就職が念頭におかれて教育がなされている。よって、日本の大学では、小・中・高と同様に、表面的な知識や小手先のスキルを主に学生に教えているように筆者は観察している。これでは、人生で一度も学問と真正面から向き合うことなく学生が社会に出てしまう。   (続く)


続:「学者」を絶滅危惧種から救え

前稿では、日本の「学者」がなぜ消滅寸前となっているのか、筆者の体験と観察をもとに分析した。本稿では、それぞれの問題を解決するための提言を述べよう。

まず、「時間」の問題の解決にはどうしたら良いか。 
1.大学、大学院には、そこでの勉学、研究の教授を受ける準備のできている学生のみを入学させる。筆者の観察によると、そもそも、準備ができていない学生が多く入学している。そのような学生にとっては、大学、大学院での勉学、研究は「苦痛」以外のなにものでもない。もし、大学あるいは大学院レベルの教授を受ける準備のできていない学生をどうしても入学させる必要があるのであれば、学生個々の能力、準備レベルにあわせてクラス分けをおこなったうえで、それぞれのクラスに適した教員、教授方法を実施すべきであろう。これらを統一的に(日本流に言うと「平等に」)教育することは不可能であるし、学生にとっても良くないことは自明である。

2.今日の日本で流行している「手取り足取り」を大学レベルではやめる。もちろん、これは難しい問題であり、大学入学まで、学校また家庭でずっと手取り足取りで教育されてきた学生を、大学で突然突き放して「これからは何事も自分の責任でやりなさい」といってもできる訳はなく、学生もそのせいで精神的に病んでしまうかもしれない。したがって、子供の時から「段階的に」自立させていく必要がある。そのためには、小・中・高、また家庭の協力も必要であり、今すぐ解決できる問題ではない。しかし、今すぐ処方箋を出すべき問題である。

3.最近では、大学にも学生の精神面をケアするための専門家が常駐(あるいは非常勤)している例が多い。しかし、実際には大学教員が個人的に学生の精神面のケアをしているのが普通である。それぞれの大学によって事情は違うだろうが、基本的には、学生の精神面のケアは、その点に関しては素人の大学教員が関わるべきではないと筆者は思う。精神面の問題は非常に難しく、専門的知識と経験が必要となる。そのような、知識と経験をもった専門のカウンセラーに任せるべきである。

4.縁日、お祭り化しているオープンキャンパスは見直すべきである。社会に開かれた大学を目指すなら、大学内の教育、研究成果を社会に伝えることに長けた専門家を何人か常勤で大学が雇用し、そのような専門家たちを中心に、大学の成果を社会に還元する方法をとるべきであると考える。その方が効率的であり有効だろう。

5.研究成果の記者発表資料であるが、これも、大学教員ではなく、大学がメディアに流す資料をつくる専門の職員を雇用し、その方々に一切を任せればよい。その場合、それらの職員には、修士号あるいは博士号をもち、専門知識があり、研究の中身をきちんと理解でき、すぐれた発表資料を作成できる能力をもっていることが要求される。

6.研究費の毎年の報告書に「新聞、テレビなどのメディアでの報道」をリストアップさせる国の方式は今すぐ廃止すべきである。論文発表、特許申請のみで十分である。研究成果と新聞、テレビなどのメディアでの報道にはなんら相関関係は存在しない。

続いて「資質」の問題の解決へ向けた提言を述べる。

1.大学教員に学問を学ばせる。学問を教授するには、教授する本人が、それぞれの専門分野の歴史的背景や学問の歴史的発展を深く把握し、これからの発展に関する深い洞察力を持ち合わせている必要がある。教員自身が、それぞれの専門分野の歴史的背景、発展の歴史などをしっかり学ぶことを義務とするべきである。そのための教員用のカリキュラムを組み、学ぶための時間を教員が持てるようにする。

2.大学、大学院の学生には、必ずそれぞれの学問分野を歴史的背景から学ばせる。表面的な知識や小手先のスキルを学びたい学生はそれらを直接身につけられる専門学校に任せればよい。もちろん、大学、大学院のなかでも、表面的な知識や小手先のスキルを中心に教えるカリキュラムを組むところがあってもよいと思うし、それはそれで社会にとって大切なことである。しかし、現在の日本の問題は、ほとんど全ての大学、大学院が、「専門学校化」しているということである。「学問を教授する大学・大学院」と「即実践で役に立つ知識とスキルを学ばせる実践大学・大学院」といった棲み分けはできないものだろうか?

 以上、解決すべき問題は山積みであるが、もし、日本が大学における「学者」を失いたくないのであれば、これらは先送りしてはならない重要な問題である。


2013年10月25日金曜日

2013年10月25日

今は日本に住んでいる日本人のひとりとしては、とても認めたくないし、反論したいけど、ここ20年くらいで、日本の外の世界からみた日本の重要性・必要性は、超ガタ落ち。日本の外に住んでいるととってもよくわかる。とても残念だけど。


外からみた今の日本の世界での位置づけは「リゾートレジャーランド」なことは明らか。日本人の自分としては受け入れたくないけど、、、。

2013年10月24日木曜日

2013年10月24日

「この件はとても複雑だし、いろいろな要素を慎重に吟味しないといけないから」といってワーキンググループをつくって半年くらいかけていろいろ考え、話し合って、結局出てきた「案」が、「ワーキンググループで半年かかってこれかい、、、。これくらいなら、数時間で高校生でも出せる案じゃろが、、、、半年かけるんなら、いろいろとデータを収集してシミュレーションして、それらに基づいてブレストしろよ!」といったことにこれまで数えきれないほど遭遇してきて、もういい加減あきれてどうしょうもない、と僕は思っている。


皆、どうなんじゃろうか、、、。

2013年10月22日火曜日

2013年10月22日

僕はアメリカに住んでいたとき、17年間ほど「ぶん太」というネコを飼ってた。NYにいたとき腎不全で17才で亡くなった。最近、けっこう頻繁に「ぶん太」が夢の中にでてきて僕に戯れてくる、、、。僕の足に戯れてくるんだよね、、、生前と同じように、、、。

2013年10月18日金曜日

2013年10月18日

周りから「佐藤先生は学生指導能力がない」と言われている。

1. そういう先生方にかぎって、小粒で何時までも乳離れできない学生しか育ってない。

2. 僕は、そもそも、所謂学生指導をするつもりはない。研究を一緒に真剣にやることで、学生が僕の背中をみてそれぞれが独自の学びかたをすればよいと思っている。


以上。

2013年10月17日木曜日

2013年10月17日

理系大学院でよくあるRA (Research Assistant)は、文字通り、研究プロジェクトの一端をにない、プロジェクト目標達成に貢献することで支給される「給料」です。なので、「仕事」に対して支払われる「給料」です。


小遣いや奨学金ではないので、RAをもらっている大学院生は、それに見合う仕事を責任もってしっかりやるように。

2013年10月16日水曜日

2013年10月16日

何年かかってでも博士号を「自分の責任で」絶対にとってやるという覚悟のないまま、一時の気まぐれや、就活に失敗したから、なにをやりたいかわからないからとりあえず大学院にいってみよう、といった気持で大学院にくる学生。

社会のルールが身に付いてない大学院生。

うまくいっているときは調子がいいけど、ドン底に落ちたときにはそこから這い上がる術を身につけていない、身につけようとしない大学院生。

研究プロジェクトを担うということの責任の重さを理解していない大学院生(電車を運転するということは、多くの乗客の命を背負っているという自覚のない運転手みたいなもの)。

こういった大学院生を易々と入学させてしまい、このような自覚や責任の無さを容認するような学生の扱いをする大学院。


2013年10月15日火曜日

2013年10月15日

米国だと、研究室は現実社会とつながっているし、社会人(PI、ポスドク、秘書、その他のスタッフ)が働いている場なので、「社会のルール」で研究室は運営されている。

僕が、それを日本でやると、まわりは「ここは学校だし。学生だし。」ということをいう。こういうことをしているから、学生は「社会のルール」がわからないまま、社会に出ていってしまうんだろう。


子供に、「社会のルール」を学ばせない教育が存在できるところが、今の日本になってしまった大きな原因じゃないだろうか。家庭でも然り。

2013年10月14日月曜日

2013年10月14日

昨日、ある方から、アメリカではモンスターペアレンツのことをヘリコプターペアレンツと呼ぶと教わりました。どこの国にも、こういう親は結構いるんですね。

2013年10月13日日曜日

2013年10月13日

繰り返すようだけど、今の日本のいろんな問題の多くは「誰かになにかをやってもらって当然」「自分で自分のことに責任をもたないでひとのせいにする」というカルチャーなんじゃないかとつくづく思う。

景気がわるいのは政治家のせい。自分たちがなにかしようとしないでお上のせいにする。その政治家に投票したのは誰。投票したのか。

就職が決まらないのは景気の悪い世の中のせい。学校の就職活動支援が不十分なせい。自分はどんな会社からも欲しがれるよう人間を磨いたのか。

いじめがおこって子供が自殺したら、そのいじめを放置した学校(先生)のせい。では、自分たちは何をした。

学生も、学位を自己責任でとるのではなく、学位は取らせてもらえるもの。学位がとれないのは教える方の問題。

研究がうまくいかないとPIのせい。テーマのせい。そのラボを選んだのは誰。テーマが気に入らなければ、自分でもっとよいテーマを提案すればよい。そのテーマをやらせてもらえなければ、ラボを辞めてそのテーマをやらせてくれるラボにかわればよい。


もっといろいろあるけど、この辺でやめとこう。折角の連休週末だし。

2013年10月12日土曜日

2013年10月12日

欧米では、親から子(2025才の頃)への誕生日プレゼントとして時々あるのに「株」がある。親のもっている「株」のいくつかを子に譲与する。

この株を資本に、それを大きくするも小さくするも、子供自身の責任ということを親は子に告げる。

僕個人的には、これはよいことだと思う。

子供に、自己責任感を植え付けられると思うし、また、物事を長期的視野で考えストラテジーをたてるクセがつく(株は長期的視野無しには利益を得られない)。


つまり、「責任感」「長期的視野」といった大人に必要なスキルを身につけるきっかけとなる。また、これにより、子は大人への第一歩を踏み出したと、親から「認められる」。

2013年10月11日金曜日

2013年10月11日

大学院は研究を通して学び自分を高めるところ。それが本分。就職するための就職予備校ではない。就活がメインでその合間に研究するんではない。研究を必死にやって、それでも時間あればそういった合間に就活するのは個人の自由。


とはいっても、今の日本の風潮だと僕のこのいい分は通らないでしょうね。まあ、就活が目的でその合間に研究するような学生は佐藤ラボ以外のラボに行けばよい訳だけど。

2013年10月10日木曜日

2013年10月10日

ひとは絶好調の時はだれだって強い気持を維持できる。でも、多くの人たちは、なにもかもがうまくいかないドン底のときには心が弱くなってつぶれてしまう。これは普通。でも、真に強いひとは、全てがうまくいかない、思うようにいかない時にも、強い気持を維持できるひと。

2013年10月9日水曜日

2013年10月9日

僕が日本に4年ほど前に来て以来ずっと思っていることのひとつに、日本には「自分のために自分で決断して何かをするひと」が極端に少ないということ。自分のためではなく、他人のために他人に決めてもらってなにかをすることで、もしそれがうまくいかなかったときは他人のせいにするひとが多い。そりゃそうだ、自分のためでなく他人のために他人に決めてもらってやっているのだから、うまくいかなくてもそれは自分の責任じゃない。こういう、自分に責任をもちたくない、だから自分のために自分で何かを決めてやらない、常に他人に決めてもらって他人のためにやる。それがうまくいかなきゃ、他人のせいにして他人に不満をぶつけたり、他人をけなしたり、他人に責任をなすりつけて、自分は逃げる隠れる。


こういう人たちが日本にはあまりに多いので米国からきた僕にはとてもカルチャーショック。もちろん、そうじゃない人たちも少数ではあるけどいますが、、、。

2013年10月7日月曜日

2013年10月7日

僕が一週間以上前に朝日新聞のウエブロンザに書いた、今年のノーベル医学生理学賞の予想が完璧に的中してしまいました。こういうこともあるんですね。

2013年10月5日土曜日

2013年10月5日

今夜は、アメリカの大学院時代からの友人と、東京のたん熊で夕食。ひさしぶりに昔話にはながさきました。今のアメリカの直面する問題についても沢山話せました。

2013年10月3日木曜日

2013年10月3日

今日は、説得力のある壮大な夢を相手の立場にたって語れば、理解してくれて強力なサポーターになってくれるんだ、と再認識できました。

2013年10月2日水曜日

2013年10月2日

世間では、「おもてなし」という言い回しが流行っているみたいですが、佐藤ラボでは学生をおもてなししません。ドクターを取る時には一人前の研究者として独り立ちできるよう鍛えます。大学の研究室として社会に対する責任がありますので。よろしく。

2013年10月1日火曜日

2013年10月1日

今日からERATO佐藤ライブ予測制御プロジェクトが始動します。

2013年9月30日月曜日

2013年9月30日

D3Mくんの論文が正式にアクセプト。おめでとう!

2013年9月28日土曜日

2013年9月28日

ふと、自分の過去を振り返ってみて、自分でテーマをみつけて自分ではじめて研究し始めたのが7才の頃だから、もう43年間もずっと研究者やっていることになる。はじめて、自分で論文書いたのが11才の頃だから、39年間も論文書き続けていることになる。我ながら、自分のストイックさには呆れますね、、、。


ちなみに、11才の時の論文は、魚の内臓にいる微生物の多様性と水質汚染の関連性について。自然科学観察コンクールに出して、文部大臣賞頂いた。副賞はかなり高性能の顕微鏡だった。

2013年9月27日金曜日

2013年9月27日

20121119日に朝日新聞ウエブロンザに掲載された僕の論考です。すでに6ヶ月以上経ったので朝日の許可を得て、ここのコピーします。


iPS一辺倒では禍根を残す

 山中伸弥さんが2006年にマウスの皮膚細胞からiPS細胞作成に成功して以来、日本社会ではiPSフィーバーがまきおこった。ことし山中さんにノーベル賞生理学・医学賞が与えられることで、フィーバーはさらに加速し、いまや日本はiPSセントリック(iPS中心主義)な社会にまっしぐらである。
もちろん、日本発の研究で初めて日本人にノーベル生理学・医学賞が授与されることはとても喜ばしいし、筆者もひとりの日本人として誇りに思う。しかし、同時に強い危惧も覚える。日本中がiPSのノーベル賞受賞で盛り上がっているときに大変申し訳ないとは思いつつ、このままiPSセントリックな状況が続くと日本の科学技術また医療産業は大変なことになると考えているので、ここで筆者の考えを読者と共有させて頂きたい。



【持続的発展ができなくなる一点集中主義】
 現代の日本は戦後の「世界に追いつけ追い越せムード」の右肩上がりの社会ではない。そのような社会は「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」のごとく崩壊した。今は「持続的な発展」が求められている。それには、新しい革新的な科学技術が次々と生まれ、それらをもとに新たな産業が創出され、それにより我々の生活の質が持続的に向上する必要がある。つまり、「一攫千金の戦略」は通用しない。
このような時代にiPS一辺倒ともとられかねない国からの支援状況は問題である。このような政策は、次世代の医療革命をもたらすような研究の芽が育ちにくい研究環境をつくりあげてしまう。仮にiPS細胞による医療産業がポシャった時に次の候補がゼロという状況になりかねない。
 科学の発展の基本は「疑う」ことである。現存のものを疑い、ときには否定することで、それを超越する革新的な発見・発明が生まれ、それが次世代の革新的産業に結びつく。いつの時代も、このような科学者の「異端児的精神」を育むことが次の時代の革新的科学技術につながってきた。現在の日本の状況は、このような「異端児的精神」が育まれにくい状況であると筆者は危惧する。

【次世代の科学者への教育的悪影響】
 山中さんのノーベル賞受賞の報道の多くが、「ノーベル賞をとれば研究費もたくさん獲得でき、好き勝手でき、有名になれる」という印象を日本の若い人たちに植え付けている。これは、まったくもって勘違いであるのだが、若い人たちはそんなことは理解できない。それが若さというものだ。したがって、それを目指して科学者になろうという、歪んだ動機をもった若い研究者の卵が増産されかねない。とくに、「ブランドに弱い日本」ではその傾向になりがちである。さらに問題なのは、「ノーベル賞やその他の知名度の高い賞がとれるまでは、あまり強いことは言えない」という「自制心」を若者が持ってしまうことである。
筆者は米国の大学で研究・教育をおこなっていた20年以上にわたり、毎年のように米国の研究費申請書の審査に関わってきた。そこで頻繁に耳にしたことのひとつは、「申請者はノーベル賞をとった研究者だが、提案されている研究内容はすでにノーベル賞をとった研究であり、過去の遺産で、これから5年、10年先を見越した独創的なものではない」といった批判である。筆者はこれが普通であり健全な審査だと信じている。
日本はどうだろう?山中さんがノーベル賞をとったとたんに、「ノーベル賞をとった研究だから」という理由で専門家による客観的で厳しい科学的な目による審査もなく、iPS細胞研究への国家予算が増やされた。このような状況は、健全な若い研究者を育てることへの弊害以外のなにものでもないと思うのは筆者だけであろうか?
そもそも研究費が流行の研究に極度に集中するのは、大変危険であると思う。若い研究者は研究費をとってくるため(つまり研究者として生き残るため)流行の研究をするようになる。すると、「小粒」の研究者しか育たず、結果的に次世代を担う優秀な若手の研究者が育たない。次世代のブレークスルーにつながる発見・発明が生まれにくくなって、科学技術立国・日本の崩壊がやってくる。

iPS細胞を使った医療産業が発展しない可能性もある】
 現在、日本ではiPS細胞が万病を治す「魔法の医療技術」のように宣伝されている。生命科学研究者のひとりとして、これは幻想であると声を大にして言いたい。例えば、現在構想されている医療技術のひとつに、自分の細胞からつくられたiPS細胞でさまざまな臓器を作成し、それらを病気になった臓器と取りかえるというものがある。この実現には、今までの標準的な創薬と比較して桁違いの開発費用・開発年月がかかることは間違いない。したがって、それにあわせて治療費も巨額になる。このような高額な医療費をはらえる人はごく限られた人たちのみであることは自明である。
また、最近、生体内でのダイレクト・リプログラミングという方法が米国の研究者らにより開発された。この方法は、病気になった臓器に直接遺伝子を導入し健全な臓器にもどしてしまうという技術である。マウスでは、この技術で膵臓や心臓疾患の治療にある程度成功している。現段階では、この技術を直接ヒトに応用するには効率がよくないが、効率化がはかれればiPS細胞は必要ないし、手術無しで内科的治療法(あるいは外科的手法を最小限におさえた治療法)が可能となることが期待される。これなら、患者への身体的・精神的な負担は少なく、医療費も上記のiPS細胞をつかった方法より格段に低くてすむ。こうした研究は、日本がiPS細胞研究一辺倒になっている間に、あっと言う間に米国に先をこされてしまった。
 iPS細胞の医療への応用のもうひとつとして、疾患を持つ患者の細胞からiPS細胞をつくり、それを使って治療法を探そうという研究がある。つまり、このような細胞を培養し、疾患のメカニズムを明らかにし、治療のための創薬に役立てるという戦略である。しかし、問題は培養細胞を使った研究であるという点である。培養細胞と生体内での病態とのギャップはかなり大きい。培養細胞の研究をもとに生まれた薬の候補が生体内でも同様の効果を示す確率は高くはない。このことは、これまでの長い創薬研究開発の歴史からみても明らかである(もちろん、成功例もある)。この点に関する問題はiPS細胞を使ったからといって消えるわけではない。つまり、iPS細胞を使えば、人間の病気の細胞を材料とした研究が可能になって大いに役立つことは確かだが、これにより人の病気治療の可能性が飛躍的に伸びるという訳ではない。


 誤解があると良くないので言っておくが、筆者はiPS研究を否定しているわけではない。iPS研究も必要である。しかし、「ノーベル賞をとった研究だから」と安易に考えず、専門家の客観的で厳しい意見・評価を十分に取り入れて議論したうえで研究費の配分をすべきだと思う。日本という国の科学技術・医療産業がこれから持続的に発展して行くための最適なロードマップを作成し、国の政策に反映させて頂きたいと筆者は切に願う。

2013年9月26日木曜日

2013年9月26日

人は老いてくるとわがまま度が上昇する傾向にあるな、と思ってきた。やっぱり、身体も心も弱くなるからだろうな。体と心はシッカリ鍛えておきます

2013年9月19日木曜日

2013年9月19日

機器は「足りない、不便」くらいが丁度いいと個人的には思っている。でないと、ゴージャスな機器にもて遊ばれて「薄っぺらい研究」になってしまう。

2013年9月11日水曜日

2013年9月11日

今日は9.11。僕は当時アメリカに住んでいてリアルタイムで早朝見た。自分の目の前でおこっていることが信じられなかったのをとてもリアルに今でもよく覚えている。これから、米国は戦争に突入すると確信したし、それにともなって大きな無力感に自分が征服されて一ヶ月くらいは本当に何もしたくなくなったのをとてもよく覚えている。

2013年9月8日日曜日

2013年9月8日

安倍首相をふくめて東京五輪招致にこれまで直接的また間接的に多大なる尽力された方々に本当に拍手を送ります。本当に大変な努力をされ、毎日が緊張の連続だったと思います。素晴らしいチームワークです。ありがとう。そして、ご苦労さま。

2013年8月31日土曜日

2013年8月31日

「缶詰」は缶詰で同じ味のものが大量生産されるのみ。僕は「缶詰」の製造の仕方や製造の効率化といったことはやったことないし、やる気もないし、興味ない。

2013年8月29日木曜日

2013年8月29日

暑かった8月もそろそろ終わり。ここ数日は涼しくなってきた。湿気も少なくなってきた。9月からはこれまでにないめまぐるしい日々が始まる。しっかり決意をあらたにのぞんでいくこととする。

2013年8月18日日曜日

2013年8月18日

今朝はジムでトレーニングの後スタバで仕事。

むかいのテーブルで大学生っぽい女の子が「30日で身に付く就活のための教養講座」みたいな問題集を勉強している。教養ってそうやって身につけるもんではないんですけど。まあ、他人事なのでどうでもいいけど。


オヤジの苦言でした。

2013年8月14日水曜日

August 14, 2013

This morning on the US radio network, there was an interesting discussion on "social bots".  I had no idea what "social bots" is, but apparently it already has major impacts on our real life.  Quite interesting.


I am wondering how much popular "social bots" is in Japan.

2013年8月10日土曜日

2013年8月10日

以下、20121011日と12日に掲載された僕の朝日新聞Webronzaの論考です。すでに6ヶ月以上経っているので朝日から許可を得てここにコピーします。


ガードン博士は山中教授なしにはノーベル賞を受賞できなかったか?


 今年のノーベル医学生理学賞がケンブリッジ大学ガードン研究所のジョン・ガードン(John B. Gurdon)博士と京都大学の山中伸弥教授に決まった。「成熟し全能性を失った細胞が、全能性をもった未成熟の細胞へリプログラム(初期化)できることの発見」が授賞理由だ。発表直後のインタビューで、ガードン博士は「私は、山中博士に感謝している。山中博士の発見がなかったら、わたしの1962年の発見は日の目をみることはなかったであろう」とおっしゃっている。本当にそうであろうか?筆者の答えはノーである。筆者は逆に山中博士の受賞こそ、ガードン博士の発見なしにはありえなかったと断言できる。その理由を以下に説明する。

 先ず、ガードン博士の1962年に発表された発見(Journal of Embryology and Experimental Morphology 10:622-640,1962)と山中博士によるiPS細胞作成が発表された2006年(Cell 126:663-676, 2006)の間に何がおこったかを知る必要がある。この約半世紀という長い年月の間に、実はさまざまな紆余曲折のドラマがあったのである(表1参照)。

 卵が受精すると細胞分裂を始める。ある程度分裂が進んだ状態が「胚」だ。さらに分裂を繰り返して胎児ができあがっていく。細胞の核を取り出して、核を除いた未受精卵に入れるとどうなるか。これは20世紀前半の発生生物学の大きなテーマだった。
1952年、カエルの胚の核を取り出して移植すると、ちゃんとオタマジャクシができることが実験で確かめられた。しかし、分裂が進んだ状態の細胞の核では、うまくいかなかった。受精して間もない時期の細胞は、未成熟で、すべての組織の細胞になりうる全能性を持つ。しかし、いったん成熟すると細胞は全能性を失う。だから、成熟した細胞の核を、核を除いた未受精卵に入れても発生は進まないと考えられた。つまり、いったん成熟した細胞を未成熟の状態へ戻すのは不可能と考えられていたわけである。

1962年にガードン博士は、オタマジャクシの成熟した腸細胞の核を使って、核移植の方法で新たなオタマジャクシを誕生させることに成功した。成熟細胞が、全能性をもった状態へと戻りうる(リプログラミング:初期化とよばれる現象)ことが示されたのである。この方法で生まれたオタマジャクシは、もとの成熟細胞の遺伝情報をそのまま受け継いでいる。同じ遺伝情報を持つもの同士は「クローン」と呼ばれる。ガードン博士は、成熟細胞の核を使ったクローンカエルの作成に成功したのである。しかし、非常に細かい作業が必要な実験で、たまたま未成熟細胞が紛れ込んでいたために「成功」したのではないかなどと疑惑のまなざしを向ける人もいた。ガードン博士はその後も時間をかけて自分の実験結果は間違いがないことを確かめ、次々と論文発表した。
こうして、クローン動物の作成はカエルなら可能であると誰もが考えるようになったが、ヒトなどの哺乳類では不可能であろうと考えられていた。

 実際、1962年以降、多くの研究者がマウスなどの哺乳類を用いて、核移植の実験をおこなったが、すべて失敗に終わっていた。ところが、1977年に、カール・イルメンゼー(Karl Illmensee)というスイスの研究者が米国の研究者との共同で、核移植でマウスのクローン作成に成功したと発表した(PNAS 74:5657-5661, 1977)。その後も、イルメンゼー博士は同様の研究結果を次々と発表し世界中を驚かせた(当時、日本で高校生であった筆者も、この騒ぎは鮮明に覚えている)。ところが、その後、イルメンゼー博士の実験結果に不正があるという内部告発があり、詳細な調査の結果、ねつ造と断定はできないが、信用性に重大な疑問があると結論づけられた。このため、博士に出ていた研究費は打ち切られ、学者生命が絶たれることになった。クローンマウスについても、ほかの研究者が実験しても再現できなかったため、ウソもしくは間違いと見なされるようになった。

 これら一連のイルメンゼー事件の結果、成熟細胞の初期化によるクローン動物の作成はカエルでは可能でも、哺乳類では不可能であろうという説が定着してしまった。

 ジョン・ガードン博士は、1962年にカエルの成熟細胞の初期化(リプログラミング)に成功し、クローンカエルを誕生させた。その後、哺乳類でもできないかと実験が繰り返されたが、「できた」と主張するカール・イルメンゼー博士の信用性に疑いがかかり、「哺乳類では不可能」というのが定説となってしまった。

突破口は思いがけない方向からやってきた。米国シアトルにあるフレッドハッチンソン癌研究所(Fred Hutchinson Cancer Research Center)のハロルド・ワイントローブ(Harold Weintraub)博士の研究グループが、大人の皮膚やさまざまな組織の細胞の核にMyoD(マイオ・ディーとよぶ)という筋肉の細胞の核内に存在するたんぱく質を入れると、全ての細胞が筋肉の細胞になるという発見を1986年に発表した(Cell 47:649-656, 1986)。つまり、たったひとつの筋肉由来のたんぱく質を放り込みさえすれば、さまざまな細胞をすべて筋肉細胞に変えることができるわけである。この発見は当時、世界中の研究者を驚愕させた。これを契機に、全能性を失った成熟細胞を初期化、あるいは他の細胞種へと変換(現在この現象はダイレクトリプログラミングとよばれている)させる研究が再度ブームをむかえた。
しかし、多くの研究者が「ひとつのたんぱく質で」ということにこだわりすぎていたため、ほとんど全ての研究は失敗に終わり、この研究ブームも徐々に下火になった。.ワイントローブ博士はMyoDの発見から9年後の1995年3月28日に49歳という若さで脳腫瘍のため他界された。

 そして96年、スコットランドのイアン・ウィルムット(Ian Wilmut)博士が改良に改良を重ねた新たな核移植方法により成熟細胞の初期化に成功、クローン羊「ドリー」を誕生させた(Nature 380:64-66, 1996)。その後、類似の方法でさまざまな哺乳類がクローン化された。核移植によるマウスのクローンはハワイ大学の日本人研究グループがやり遂げた(Nature 394:369-374, 1998)。こうして、技術改良を重ねれば、カエルだけでなく、哺乳動物も核移植によるクローン動物の作成は可能であるということが明らかになった。

 90年代後半には、1)全能性を失った組織由来の細胞も核移植により初期化は可能;2)細胞の筋肉細胞への変換は「ひとつのたんぱく質(MyoDなど)」で可能であるが、細胞の初期化を含む筋肉以外の細胞種への変換に関しては不可能、という2つのことが明確になった。そこで、山中さんは、これらの状況を柔軟に考え、「ひとつのたんぱく質」でだめなら、いくつかのたんぱく質を組み合わせて全能性を失った組織由来の細胞の核内に入れれば初期化できるのではないかと考えた。その結果、4つのたんぱく質を入れることで初期化され、全能性をもったiPS細胞の作成に成功した。

 これらの歴史的背景からもわかるように、1962年のガードン博士による研究成果とその後一連の研究結果により、山中さんが研究を始める前にすでに、全能性を失った細胞の初期化は可能であるとわかっていた。山中さんの業績の意義は、核移植無しで初期化を可能にする、驚くほどシンプルな条件をみつけたことにある。
筆者は、ガードン博士は山中さんの研究がなくともいつかはノーベル賞を受賞されていたと確信する。もちろん、山中さんによるiPS細胞作成により、ガードン博士のノーベル賞受賞が後押しされたことは事実である。

 逆に、山中さんはガードン博士の研究なしにでもノーベル賞を受賞されておられたであろうか?この問いに対する答えは簡単である。そもそも、ガードン博士の発見がなければ、細胞自体が初期化できる可能性があるかどうかすら解らない訳であるから、山中さんの研究自体が存在していなかったであろうことは容易に想像できる。よって、答えは自明である。


 ノーベル賞発表直後のインタビューでのガードン博士の発言は、イギリス人特有のブリティッシュユーモア(British humour)であったのだと思う。相変わらず、イギリス人は粋(いき)です。

2013年8月8日木曜日

August 8, 2013

FB.  I have been using it for a couple of years now, and it is a great means to get connected with friends and also, sometimes, for advertisement purposes.  However, it also has some evil side to it, which, I feel, is creeping up on myself.


So, I made up my mind to use it more carefully and maximize the effects of the good sides of it, and try to avoid any evil sides.

2013年8月6日火曜日

2013年8月6日

86日。僕は、198586日に成田を飛び立ってアメリカに行った。

それ以来、アメリカに住んでいた時もずっと、86日だけは日本にいたいと思うようになった。


今日だけは日本に居ることができることに感謝。

2013年8月4日日曜日

2013年8月4日

最近思っていることのひとつ。

研究の「日常」を、研究とは無縁の一般の方々にもっと正確に理解してもらうにはどういう方法があるのだろうということ。各大学や研究機関が一般の方々に公開講座みたいなことをやっているが、どういう研究をやっているかにかんしては理解してもらえるが、「研究現場の日常」は理解してもらえていないと感じる。研究現場のもっと泥臭い部分を理解してもらわない限り研究のサポートをして頂くことは難しいと考える。

2013年8月3日土曜日

2013年8月3日

「我々は世界一番を目指して20年後には世界一に必ずなります」と言えないかわりに「常に上を目指して成長しつづける」なんて言い始めたら、もう既にその時点で「言い訳」にしか聞こえない。

2013年8月2日金曜日

2013年8月2日

兎に角、自分をしっかりもって何が自分にとって一番大切なものかということを常に考えていないと、ついつい嫌でもまわりに流されてしまうというか、まわりからの「引力」があまりにも強いのを最近特に感じる。


真に大切なものに集中する。

2013年8月1日木曜日

2013年7月31日水曜日

2013年7月31日

日本に来てからの4年間、日本語で文章を書く事が激増しているのだが、いまだに自分の書く文章の幼稚さにがっかりしている。最近、その原因のひとつがわかってきた。それは、当たり前のことではあるが、僕は日本語のいろいろな日本語の基本となる文章のテンプレートが、英語の文章に比較して、まだまだ少ないということである。

これを克服するためには、もっといろいろな日本語の文章を読まなければいけないのだが、ついつい英語のものばかり読んでします。日本語よりは英語のほうが頭にすんなり入りやすいし、とにかく英語の文章のほうが早く読める。


現状では、読み物のうち90%くらいが英語の読み物で、日本語の読み物は10%くらい。せめて50%くらいは日本語を読まないといけないのだろうな。

2013年7月29日月曜日

2013年7月29日

僕が時々学生さんたち(特に高校生と学部生)に使うたとえ話。

僕は学ぶための「材料」を提供するだけ。「材料」は「いろんな種類のアイスクリーム」。良い「材料」は、いろんなフレーバーがあって、その中のいくつかを食べたいと思わせるアイスクリームじゃないといけない。

でも、食べるのは学生さん達。見るだけでは味はわからないし、アイスクリーム食べたときの幸せな気持ちは味わえない。

逆に、チョコが好きな学生さんに無理矢理バニラを食べさせても美味しくないし、幸せな気分にならない。もっと食べたいという気分にもならない。そのせいで、アイスクリームが嫌いになるかもしれない。


だから、アイスクリームを食べさせてもらうのではなく、自分から好きなアイスクリームを食べてほしい。どのアイスクリームが好きかわからない人は、先ず、いろいろなフレーバーのアイスクリームを少しずつテイスティングして好きなのを見つけてほしい。

2013年7月27日土曜日

2013年7月27日

自分の頭でしっかり考え、その考えをひとりの人間の意見として発言できる能力は、小学校、中学校くらいで身につけておかないとその後では無理だなと最近感じる。兎に角、日本の将来のためには今すぐ、小中学校の教育、親の教育を抜本的に改革する必要ありです。

2013年7月25日木曜日

2013年7月25日

僕の人生観というか価値観・世界観は、先ずはしっかりした「個人」の存在があって、それぞれの「個人」がお互いをrespectし、組織・社会に貢献する、というものであり、僕は生まれて今までそういった人生観・価値観・世界観で50年間生きてきた。だから、僕は、組織・社会は「個人」が集まってつくりあげていくものだとずっと信じている。僕の小中高大の時を知っている日本の友人達は、そういう僕をとてもよく知っていると思う。

しかし、最近思うのは、僕みたいな人間は、日本ではうまく生きていけないのではないかということである。どうも、ぼくのまわりは、口では(つまり「建前」では)違うことを言っている方々がいらっしゃるが、多くは、先ずは「組織」「社会」があり、個人はそれぞれがその中で役割を担って「組織」「社会」を支えていく、といった人生観・価値観・世界観を信じ、それに基づいて物事をすすめ、その物差しで人を評価しているような気がする。

そう考えると、逆に僕のラボでうまくやっていける人間は、もしかしたら日本の組織や社会ではうまくやっていけなくなってしまうのではないだろうかと、最近思いはじめている。


もし、これから僕が日本の組織や社会でうまくやっていくことができれば、他の佐藤ラボメンバーも大丈夫だと思うが、、、。

2013年7月22日月曜日

2013年7月22日

春樹の「、、、多崎つくる、、、」の中で「アカ」が言ってた、「世の中の大抵の人間は、他人から命令を受け、それに従うことにとくに抵抗を感じていない。むしろ人から命令されることに喜びさえ感じている。むろん文句は言うが、それは本気じゃない。ただ習慣的にぶつぶつこぼしているだけだ。自分の頭でものを考えろ、責任をもって判断しろと言われると、彼らは混乱する。」。


まったくそうなんだな、と。これは、日本に来て4年間の経験で、僕が生きている間には変わらないということは、残念ながら確信できた。今後は、これをふまえた上で、自分がこれから自分の人生をどう生きて行くかを考えるのみ。

2013年7月20日土曜日

2013年7月20日

輪廻を完全に信じているわけではないけど、僕はかなり昔(十代)から、自分は絶対にロシア人の生まれ変わりだろうとかなり確信を持っている。


中高の時からロシア文学読むととても落ち着いた気分になるし、小樽に滞在するたびになんかとても懐かしい気分になる。大学ではロシア語を4年勉強して、ロシア語のリズムがとても懐かしい気持ちにさせてくれる。何故だかわからないが。