やはり、若い頃とは色々なことが違うので、少し生活のリズムやスタイルを見直さないといけない。
2011年6月30日木曜日
2011年6月30日
最近、「歳をとると暑さに弱くなる」というのを実感している。昔、テキサスに住んでる頃(30代)は40℃近くの気温の中を自転車で5~6時間乗って、そのあと2時間くらい走っても全然大丈夫だった。しかし、今は大阪で朝30℃近い気温の中、1時間くらい走るとかなりばてる。2時間も走ると、かなりダメージがある。
2011年6月28日火曜日
2011年6月28日
HHMI、Max-Planck-Institute、Welcome Trustが共同で新しいTop Tier のOpen Access Journal を2012夏までに創刊 するらしい。
http://www.hhmi.org/news/20110627.html
今までも、PLOS Biology など同様の目的で創刊されたが、そのレベルはいまいちというのが現状。
Nature、Cell、Science を上回るImpactをだせるJournal になるかどうか。HHMIのInvestigatorや、Max-Planck のサイエンティストが一番押しの論文を投稿するようになれば、その可能性は上がると思う。
僕の大学院の時の同級生であり、現在Cell のChief-EditorのEmily Marcusはこの、「強敵現る」の事態をどのように思っていて、どのようなビジネスプランをたてるのだろうか。
僕のラボからも、来年はこの新しいOpen Access Journal に一押しの論文を投稿してみようかな。。。
2011年6月26日日曜日
2011年6月26日
一週間にわたるアメリカ滞在から日本に帰ってきた。
South San Francisco では今までの製薬、バイオテックに加えて、バイオ燃料、自然エネルギーなどのベンチャー企業が軒並み増えていてびっくりした。このあたりへの投資も考えようかなと思った。
将来、Genentech 、Apple、HP、Intel などに次ぐサクセスストーリーがバイオ燃料、自然エネルギー分野でも、ここBay areaから生まれそうな勢いである。注目度はかなり高い。
2011年6月25日土曜日
2011年6月25日
NAISTも今年創立20年をむかえるわけだが、NAISTバイオサイエンス大学院卒業生からそろそろ世界のトップレベルの研究をしている教授が出て来てもいいものだが、まだ居ないような気がする。NAISTバイオサイエンス卒業生で現在国内あるいは海外で教授になって、世界トップレベルの研究をしている人は、もしかしたらゼロなのかも知れない。
これから出て来るのだろうか?
もし、出ていないなら、そういう人材が将来出現してくるような大学院教育体制を今すぐつくっていく必要がある。もし、本当にそのような人材が創立20年経っても出ていないのであれば、それはNAISTバイオサイエンスでの過去の大学院教育のやり方が間違っていたか、あるいは優秀なポテンシャルのある学生のNAISTへの勧誘が出来ていなかったという訳だから、このへんのミステイクを確り受けとめ、認めて、今すぐこの両方を改革する必要がある。
これらを今すぐしないと、世界のトップレベルどころか、島国の中級レベル大学院になって、そのうち消えて無くなるだろう。
僕は自分の関わった大学がそのような運命をたどることだけは我慢出来ないし、許せないので、何があろうとも、誰がなんと言おうと、そのようなことにならないよう、僕のエゴを通すつもり。改革の方法は既にかなり明瞭にわかっているので、それをとにかく勇気をもってすぐに実行して行く。
これは、僕の挑戦状です。宜しく。
2011年6月24日金曜日
2011年6月24日
最近、「国立大学も広く民間からの寄付を集めて活動していく時代にならざるを得ないだろう。。。。」という事をよく聞く。
アメリカの大学で20年以上教授をやり、ある程度Adminitrativeな面も周知している立場からいわせてもらうと、日本で大学が寄付を集めるのは大変困難。
1. 大学にFund Raising のExpert を高額の給料を払ってやらないと上手くいかない。 しかし、そのようなスキルがあり、しかも日本の大学で働きたいと思う人は今の日本にほとんど居ない。 かといって、本来研究、教育に専念しているべき教員にそのような仕事がまわって来ては、とんでもないことになる。
2. 日本のお金持ちといってもたかが知れていて、高額の寄付のできるひとは少人数。孫さん、イチロウ、数えるくらいしかいない。大金持ちに嫉妬する国民性が変わらない限り、日本では多くの大金持ちは出て来ない。小金持ちはある程度いるけど。。。。。つまり、寄付が集まらないし、集まっても高々知れた額(多くて、数億円)。
このような理由から、寄付というかたちは難しい。イギリスやオーストラリアでは「チャリティ-」というかたちで、研究所などは資金を集めている。日本は、寄付ではなく、もっと違うかたちでの資金集めの方法を考えたほうがよいと思う。
2011年6月23日木曜日
2011年6月23日
筑波の初期時代(創立10年以内)に入学した学生で、現在海外で活躍している医学・バイオ分野の研究者はかなりいる。僕の知っているだけで、アメリカのトップ大学で教授をしている、あるいはしていた人は3人いる。
Masashi Yanagisawa
Thomas N. Sato (私)
Keiko Torii
この三人めのTorii さんは僕の2年後輩。彼女はUniversity of Washington でProfessor をしている。Nature, Science にガンガン論文を発表している。また、おめでたいことに、先日あの世界的に有名なHHMI(Howard Hughes Medical Institute)の新しいプログラムである植物分野のInvestigator 15人のひとりに選ばれた。
このように、研究がバリバリでき、世界レベルで研究が認められていて、国際感覚を持ち合わせた女性研究者に日本のサイエンスを支えていって貰いたいと思う。
でもToriiさんは日本には帰ってこないだろうな。。。。ご主人はアメリカ人で理論物理の教授だし。。。。小さなお子さんも2人いらっしゃるし。
NAISTのバイオサイエンスは植物は強いので、Toriiさんを教授でリクルート出来ないかな。。。。
ToriiさんがNAISTに来てくれれば、ほんとにできる女性研究者とはどういうことなのかというのが女子学生にわかって、かなり刺激になると思うのだが。女子学生には素晴らしいRole Model になるはず。現在、NAISTバイオサイエンスにはこのような女性教授が必要なのだが。。。
NAISTバイオサイエンスよ、Toriiさん@SeattleにLove Callしたら如何でしょう?
2011年6月22日水曜日
2011年6月22日
今日もボストン。Harvard Medical School に来ている。僕は、ここで1995年~1997年の間Assistant Professor として、自分のラボを運営し、研究していた。その頃とあまり変わっていないが、研究施設やまわりの大学病院などの新しい建物が増えていた。
今回San Francisco とBoston に研究関係の仕事に来ている訳だが、まわりの知的環境はとても大切だと改めて思った。また、残念なことに、日本はやっぱり島国だと思う。
日本に来て2年なので、まだ間に合うと思う。島国に自分がいる事が普通に感じられたら、もうそれで終わりだと思う。僕自信が腐った人間になってしまぬよう、島国にいることが、如何に異常なことなのかという事がいつも確認できるよう、打開策を今すぐ打ち立てることにする(具体案はあるが、ここでは書けない)。
2011年6月21日火曜日
2011年6月21日
今週はアメリカに研究関係の仕事で一週間滞在。昨日はSouth San Franciscoにあるバイオテックの会社で研究の話しをした。昨夜はそこの研究者の人たちとChineseを食べにいった。今日からボストンに土曜まで滞在して、日本に帰る。
今回アメリカに戻ってきて、僕自身が日本にいる時はかなり萎縮しているな、とすごく思った。アメリカにいると、ほんとに自由に本当の自分でいられるように感じる。日本にいると、まわりに気をつかったり、まわりの目をどうしても気にしてしまう(そうです、僕でも日本では一応は気をつかっているのだ)。僕をこのように萎縮させてしまう、あの日本の空気は何なんだろう。。。。
やはり、アメリカにも(San FranciscoかManhattan)ひとつ棲家をつくろうかなと真剣に思った(去年の7月にマンハッタンのマンションを売ってしまったので、今はアメリカにひとつも棲家が無い。。。。)。
2011年6月19日日曜日
2011年6月19日
日本で学生さんを指導するようになって、自分が学生だった頃のことをよく振り返ってみるようになった。
筑波大で学部生だった頃の僕をひと言で言うなら「めちゃくちゃ沢山勉強したけど、同時にめちゃくちゃアホなことをして遊んだ」という感じである。
勉強はとにかく真剣に沢山した(図書館が僕の棲家だったといっても過言ではないと思う)。授業も、文系、理系、専門、専門外、役に経つと思ったものは全てとった。そして、全てAをとるつもりで勉強した。指定された教科書が日本語でも、僕は英語の原著を図書館で借りたり、丸善で購入して、原著で勉強した。また、試験の答案も、先生方に前もって許可を得て、ほとんど英語で試験の回答を書いて提出した。評価もAでなければ、単位を落としてくださいと、各先生方に前もって言っておいた。研究も沢山した(学部の時にFirst Author で論文を二つ発表した)。
アホな遊びの方は、今振り返るととても恥ずかしくて、あまり人には知られたくないようなことを沢山した。若気のいたりである。ほんとに酷い遊びを沢山した(具体的には、勿論ここには書けない)。
2011年6月18日土曜日
2011年6月18日
僕の尊敬しているひとりの方から「Don't carry the world upon your shoulders」という助言を頂いた。
たしかに僕は昔から全てを自分で背負い込んでしまう傾向にあると思う。これは、強い自立心という意味では良いのだろうけど、行き過ぎると良くないのかも知れない。
僕は、昔からひとに「手を貸して」「少し助けてもらえると助かるんだけど、お願い出来ないかな」といったお願いするということが、とても下手だった(今もこれが中々出来ない)。
頂いた助言について色々考えてみようと思う。
追伸
結局、来年8月にNew YorkであるIronman US Championship にはエントリーしなかった。スケジュール的に、そのためのトレーニングをしっかりできる状況ではないので。とにかく、今年から来年にかけては、NAIST佐藤ラボから、どんどん論文をだして、もう二つくらい億単位のグラントをとってくることが急務だと考えている。学生さんたち、スタッフの方たちがとても一生懸命研究し、ラボをサポートしてくれているので、僕は僕の役目である、研究費獲得というところで、もっとがんばらないといけない。
2011年6月16日木曜日
2011年6月16日
昨日、ある筋から聞いた話しだが、何人かの大学院生たちは、本当は会社から内定をもらっているのに、まだ内定がでないと嘘をついて、ラボには来ず旅行に行ったり、遊んでいたりするらしい。
内定が決まったとラボに報告するとラボで研究を再開しないといけないかららしい。暫く、内定が決まってないと嘘をついて、秋くらいにようやく内定決まりましたと報告し、数ヶ月修士論文の研究をすれば、自動的に修士号が貰えると考えているらしい。
就職の内定があるのに、さすがに研究不足といって、修士号を出さないなどという不条理なことをいう先生はいないとたかをくくっているらしい。実際には、学生を指導している助教やポスドクの人たちが手取り足取り、なんとしても修士号をとらせるために必死こいて学生の実験を手伝っているというのが現状らしい。
この話しを聞いて、僕は開いた口が塞がらなかった。学生たちは何のために大学に来ているのか。。。。。授業料の無駄だから、そのような学生は大学院に来なくていいのにと思う。アメリカでは、こんな気持ちで大学院には学生は来ない。ほとんどが、かなり真剣で、必死に学位をとるために勉強、研究している。だいたい、相当な努力をしないと学位はもらえないし、だれも手助けしてくれない。
この話しNAISTだけかと思ったが、色々な人達に聞いてみると、日本の大学院修士過程ではよくあることらしく、東大、京大、阪大などでもよくある話しらしい。
このようなことを考える学生にも問題はあるが、僕は日本の教員側にも問題があると思う。だいたい、日本の教員は手取り足取り学生の面倒を見すぎる。一年弱の研究で「研究初心者」の学生に修士論文の研究ができるわけがない。それを無理やりできるようにと、助教やポスドクが手取り足取り実験を手伝ったり(ひどい場合には実験の一部をやってあげたりしているらしい)している。
もう、 いい加減にするべき。学生も教員も乳離れしないと、日本の大学はほんとに駄目になってしまう。僕は少なくとも、NAISTバイオサイエンスだけでも、即刻この状態はなんとかしないといけないと思うので、やりますよ!! (何をやるかはここでは書けません)。
2011年6月15日水曜日
2011年6月15日
「博士号をとっても、それに見合ったポジションが無い」
だから、わざわざ博士号なんか取らないで、修士や学士で就職する。
よくあるパターン。僕は聞き飽きた。
博士号は、医者の免許、弁護士の免許、MBA (Master of Business Administration) などとは違う。しかも、現在のシステムでは、医師の免許や弁護士の免許を取るよりも、はるかに簡単に博士号を取ることができる(それは、それで問題なのだが。。。。)。
そのような現状にある社会で、博士号をとれば、それに見合ったポジションが「用意されている」と期待するほうが間違っている。
博士号は、持ってても特に何かスペシャルなものでは無いが、持っていないと話しにならないモノくらいに考えたほうが良い。したがって、ベターな就職をするための戦略の一環として博士号を取るというのはやめたほうが良い。後で、ガッカリするだけである。
では、なぜ博士号を取るのか?僕が思うに二つある。
ひとつは、博士号を取ることにより、その分野の「プロ予備軍」(したがって、まだ真のプロではない)としての称号を与えてもらえるからである。それにより、「真のプロ」となるためのスタートラインに並ばせてもらえる。このスタートラインに並ばせてもらえないと、先ずは話しにならない。
もうひとつの理由は、もっと勉強するためである。修士や学士だけでは、とても学び切れない沢山のスキルが学べるし、もっと頭を鍛えて偉くなれる。頭を鍛えることは、その人の人生を豊かにする。
したがって、博士号を取る事と、就職は切り離して考えたほうが良いと思う。このようなことを書くと、ますます博士をとりたいと思う人達が減ってしまうのかも知れないが、これが僕の正直なアドバイスである。
僕は、このような気持ちで博士号を取ろうと思ってる学生さんたちには真剣に接する。Peace!!
2011年6月13日月曜日
2011年6月13日
先日ここに書いた、ある日本人研究者のひとのEditorial に関して。このような、世界に発信するところで、間違った情報がいくつか書かれている。
この人は、伊藤若冲が「浮世絵」を描いていたと、Editorial に書かれているが、間違い。伊藤若冲は、動物とか自然は描いてるけど、浮世絵は描いてない。また、この方は、華岡清州が全身麻酔をおこなったのも、鎖国という環境でこそ、日本独自のものが世界に先駆けて出来た例として書かれておられるが、これも間違い。華岡清州は東洋医学と西洋医学(主にオランダ医学)を学んでおり、その勉強を「応用して」全身麻酔を行っただけで、別に日本独自のものでもなんでもない。
このように、世界中に発信するような場に書く場合(というか、そうでなく小さなところに書く時でも、書き物は全て:「書いたものは永遠に残る、つまり本人が死んだ後も残る」という認識をもつ必要がある)は、きちんと情報の正確さを確認してから、発信して貰いたい。
全然、話しは違うが、僕は最近、アメリカにいた時の「緊張感が漲った環境」がとても恋しい。このまま、「ぬるま湯社会」にいると、僕は「世界に通用しないただの日本人」あるいは「世界に通用していると勘違いしている日本人」になって終いそうで、とても怖い。今すぐ、なんとかしないといけない。
2011年6月12日日曜日
2011年6月12日
僕は自分の学生さんたちには、将来世界を舞台に活躍してもらいたいと思っています。日本みたいに小さな国に限定して、将来就職しようとすると、とても大変だと思う。やりがいのあるポジションはそんなに無いと思います。
しかし、ちょっと視点をかえて、日本以外の世界をみれば、チャレンジングなポジションは沢山あります。なければ、自分で新しいポジション、会社、仕事をつくればいいです。日本の国内では、そんなに簡単にはいきませんが、海外ではその可能性が数十倍以上になります。
日本以外の世界で、チャレンジングなポジションを得たり、新しいポジション、会社、仕事を自分でつくるには、並大抵な努力では無理です。真剣に大変な努力をする必要があります。世界を相手に競争しないといけません。でも、それから得られるものは(成功しても、失敗しても)、人生をとても豊かなものにします。それは、絶対そうです。
僕は、以上のことを身をもって経験してきたので、それを学生さんたちに自信をもって伝えることが出来ます。
半端ではない意欲と知性をもった学生さんたちは、是非、勇気をもって世界にチャレンジしてもらいたいと思います。あなたたちの人生を豊かにします。その時には、そのような経験をしてない人たちに相談しても、想像、思い込み、いい加減な感想のような意見、助言、まやかししか得られません。気をつけて下さい。
2011年6月11日土曜日
2011年6月11日
「島国根性」の異常に強い人達がいる。こういう人達は「1+1=5」だと信じきっているので、いくら「1+1=2」ですよといっても、「ここでは1+1=5ということになってるんだ」と言い張られるだけなので、どうしょうもない。指摘すればするほどDefensiveになるので逆効果。こういう人達が組織や国の上にたつと、その国(組織)はどうしょうもなくなる。世界からゆっくりと、しかし確実に取り残される。
しかし、日本の場合、国や多くの組織では、上に立つ人達はリーダーではなく、「調整係」だったり「雑用係」なので、あまり問題にはならないのかもしれない。別の意味では問題なのだが。。。。日本では、また日本の多くの組織では、上に立つ人の役割は、まわりの人たちをできるだけ怒らせないで、上手く調整するだけのようだ。強いリーダーシップをもって国や組織を改革していくのではない。
国や組織の上に立つ人は、強いリーダーシップと巧みな調整能力の両方を兼ね備えた人でなければならない。僕の尊敬する、世界中のリーダーの人たちは皆この二つのスキルを持っている。僕も、少しづつこれらの尊敬する人たちに近づけるよう、毎日が修行の連続。
2011年6月10日金曜日
2011年6月10日
今日、ある雑誌のEditorial に、ある日本人の研究者の方が、江戸時代には日本が鎖国時代にあり、そのおかげで、Pureな好奇心にもとづいた独特の芸術とサイエンスが花開いたと述べられていた。
芸術に関しては、正しい見解だが、サイエンスに関しては全くもって間違っている。日本はサイエンスに関していえば、鎖国のおかげで、議論をすることを抑圧する文化が育ってしまい、サイエンスは後退したと僕は考える。論理的説明のキャチボールという「議論」という行為が抑圧されたところにサイエンスは育たない。
もちろん、サイエンスにおいて好奇心はとても大切である。しかし、サイエンスは鋭い論理展開、論理的思考がとても大切であると僕は信じている。このEditorial にかかれた方の、日本で花開いたバイオサイエンスの例をみてみると、好奇心の部分は良いのだが、やはり鋭い論理展開性にかけると、僕は思う。
一般的に、論理展開、論理的思考は、太古の昔から日本人のもっとも不得意とするところだと僕は思う。僕は子供の頃から論理的思考をもっとも大切にしていたので、周りから「理屈っぽい」とよく嫌がられた。
日本人の多くは、しっかり頭を使って考えることを嫌うので、論理的な展開という事をとても嫌うし、また面倒くさがる。したがって、論理性を極めないといけなくなると、すぐに「まあまあ、そういわずに」「そうはいうけど、いろいろあるのよ」とすぐにはぐらかされる。
これからの若い世代の人たちには、「論理性のキャチボール」という能力を子供の時から養ってもらいたい。。。。。周りからは嫌がられるけど、無視して強く生きて下さい。
2011年6月9日木曜日
2011年6月9日
来年(2012年)8月11日にNew Yorkで第1回Ironman US Championshipレースがある。如何しよう。。。。ズゴク迷う。出たい。2008年以来、Ironman レースに出てない。New Yorkだし。メチャクチャ出たい。でも、8月は研究が忙しいし。。。。6月15日にOnline エントリーが始まる。それまでに決心しないと。多分、数分か数秒でエントリーはいっぱいになると思う。
出る。出ない。出る。出ない。出る。。。。。。。。
2011年6月8日水曜日
2011年6月8日
ヒトは弱いので,悪い環境にいると、いくら才能のある人も、ドンドン落ちて行く。NAISTのような大学院大学では、教員は一日のもっとも多くの時間を学生と過ごすことになる。したがって、学生と教員の知的な関係がないと、いくらできる教員も学生も、ダメになってしまう。
僕は20年以上ラボのヘッドをしているが、ラボの知的な環境というのをなによりも一番大切にしている。そのためには、ラボのヘッドの知的レベルの高さがクリティカル。
したがって、僕は今でも自分の知的レベルの向上にもっとも多くの時間を割いている。僕の知的レベルが上がれば、まわりの(例えば学生さんの)知的レベルも自然と上がってくると僕は信じている。
2011年6月7日火曜日
2011年6月7日
昨夜、私の尊敬している方と会食を久しぶりにした。いつものことながら、沢山学ぶことがあった。今後の方針に関しても多くの助言を頂いた。また、とても元気がでた。有難いことである。頑張ります。
2011年6月5日日曜日
2011年6月5日
最近ひとつ思っていることがある。
アメリカはどんな分野、仕事でも、いろんな意味で、競争社会で、それも半端じゃないレベルの競争があり、とても厳しいので、その分野で一流になるには、並大抵のことではない。日本の受験戦争なんて「へのカッパ」で比べものにならない。したがって、とにかく上へ上へ、前へ前へ前進しなければならない。そのためには、合理主義に徹しないとならないし、本質とは関係無いことにこだわっている時間も暇も無い。
一方、日本では、競争はそんなに厳しくないし、どんぐりの背比べだから、ちょっとした「見せかけ」を演出するだけや、ちょっと「要領が良い」と、目だって、持てはやされたり、チヤホヤされたり、威張らせて貰ったり、敬われたりする。そのために、本質とは関係無いことに、こだわったり、重箱の隅をつついているような、時間や暇があるのだと思う。
これは、あくまで僕の個人的な感想、意見なので、間違っているかも知れない。
2011年6月4日土曜日
2011年6月4日
今日はとても過激なこと(つまり、あまりにも的を得ていて、直接的過ぎること)を書いたが、しばらくたって読み返してみると、さすがにこれをここに書いてしまうと、良くないことが沢山おきてしまうので、消去した。
先ずは、今度、理事の先生方と学長に直接話してみようと思う。
2011年6月2日木曜日
2011年6月2日
昨日、学生たちのある研究発表会を聞きにいった。そこで思ったこと。
多くの学生さんたちが、指導教官や先輩からいわれたことをただ単に説明している。他人の意見・見解と自分の意見・見解をはっきり区別しないで発表している。こんなことを続けていると、いつの間にか、他人の意見・見解を自分の意見・見解と錯覚してしまって、他人と自分の区別がつけられなくなってしまう。
「他人の意見・見解」は何で、「自分の意見・見解」はそれらとどこが同じで、どこが違うか、つまり相違点、を明確にしないと、駄目。これらの相違点をできるかぎり明確に具体的にしないといけない。これが出来ないと、サイエンスでは致命傷。早い時期からやらないと、それが出来ないのが「悪い癖」になってしまい、一生直らなくなってしまう。
サイエンス以外でも、このことは当てはまる。常に、他人と自分の境目をくっきり明確にしないと、自分ではなにも出来ないダメ人間になってしまう。このような人間が多い組織はとても怖いし、必ず衰退する。歴史をふりかえってみれば、これは一目瞭然。
皆さん、この「悪い癖」がつかないよう、しっかりしましょう。
2011年6月1日水曜日
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