以下、2014年1月29日、30日と朝日新聞ウエブロンザに掲載された僕の論考です。すでに時効なので、朝日新聞から許可を得てここにコピーします。
日本版NIH問題で明らかになった
日本の研究文化のダメなところ
医療分野の研究開発に関する総合戦略が平成26年1月22日に発表された。医療分野の研究開発を一元的に推進、展開するために内閣総理大臣を本部長とする健康・医療戦略推進本部を作り、新しい独立行政法人を設置するといった内容だ。昨年からさまざまなマスメディアで報道されてきたいわゆる「日本版NIH」構想である。NIHとは米国の国立保健研究所の略称だ。筆者は、この「日本版NIH」騒動を通じて、日本の研究開発の世界の特異性が明らかになったと痛感する。とくに21世紀になっても未だに基礎研究と応用研究を分ける傾向が、多くの研究者、政府関係者、一般市民の中に根強くあるのは驚くべきことだ。これは、日本において未だに文系と理系をわけることが世間一般で当たり前になっていることに通じるものである。米国のハーバード大学、テキサス大学、コーネル大学などで15年以上生命科学の研究をし、10年以上米国NIHから研究費を毎年頂いてきた筆者の目からみた日本の奇妙な研究文化について以下にまとめる。
研究者が自分自身を基礎か応用に分類してしまう奇妙な慣習
筆者が5年前に日本の大学にきて驚いたことのひとつが、医学や生命科学分野の多くの研究者が、自分は基礎研究者、自分は臨床研究者、と自ら自身を分類していることだった。米国の医学、生命科学でも、もちろん基礎研究分野、臨床研究分野、そのふたつをつなぐトランスレーショナル研究分野という分類は存在する。しかし、たとえ基礎分野の研究を行っている研究者でも、自分の研究が10年〜20年後にどのような疾患治療や予防、あるいは産業的な応用につながる可能性があるかということは常に頭にあるように筆者は感じた。少なくとも、日本の基礎研究分野の研究者よりはそういった意識が高かった。また、米国の臨床分野やトランスレーショナル分野の研究者は日本に比べて基礎研究に対してもう少し真摯に向き合い、基礎レベルの研究に対して興味をもって深くまで理解しているように感じた。これらの差をもたらす要因は何か。筆者の考えを以下に挙げる。
【文系と理系を区別しすぎる日本】
第一の要因は、米国と日本の教育文化の違いだろう。
日本では、子供のころから、自分は算数が苦手だから文系、国語が苦手だから理系と分けてしまう傾向があり、まわり(学校や家庭)もそういった子供の感覚を当然のごとく容認し助長する傾向がある。こういった幼稚な感覚は、大学受験ひいては就職活動まで続く。
一方、米国では、文系と理系にわけて教育を考える環境やシステムは存在しない。国語に代表される読み書き、数学に代表される論理的な思考、などは全ての教育の基礎だと見なされている。米国の医学部に進学する学生の中には、学部では国語(つまりEnglish)専攻であった学生が少なくないことも、そういった環境を表すひとつの例だと思う(米国では、学部4年を卒業後に医学部へ進学する)。
また、日本では、文系と理系の区別は大人の社会でも続く。たとえば、多くの大学では文系と理系の対立が未だに根強い。こういった日本人の無意識に存在する感覚や気質が、医学分野における基礎と臨床(応用)を過剰に区別する文化につながっている第一の要因ではないかと筆者は考える。
【基礎研究者の臨床(応用)研究への偏見】
第二の要因は、基礎分野の研究者に存在する臨床(応用)研究分野への偏見である。多くの基礎研究分野の研究者には、臨床研究も人を対象とした「サイエンス」であるということがしっかり理解されていないと筆者は感じる。いわゆる基礎研究者が様々な生物を対象にサイエンスを展開しているのと同様に、臨床研究者も人を対象としてサイエンスを展開している。人を含む多様な生物を対象に研究が行われることで初めて普遍的な原理が導きだされると筆者は信じている。ところが、日本にいる多くの基礎研究者は、人を対象としている臨床研究は、他の生物を対象とした研究を、単に人に応用しているだけで、臨床研究はサイエンスではない、という偏見があるように感じられる。
去年、日本版NIH構想の検討が政府官邸から発表され、メディアで取り上げ始められると、多くの基礎研究者は、日本版NIH構想が現実になると臨床研究へ巨額の予算が流れ、そのとばっちりをこうむって基礎研究の予算が大幅に削減されるという恐怖心を持ち、さまざまな声明文を発表した。
例えば、日本細胞生物学会、日本植物生理学会などを含む生物科学学会連合や日本原生動物学会、日本藻類学会などを含む加盟団体、計52学会が「『日本版 NIH』構想における資源配分と人材育成プロセスへの懸念」(2013年6月11日)として緊急声明を発表した。そこには、「研究者の自由な発想に基づくボトムアップ型の基礎研究は学問の根源を成すものであり、 その芽を摘むことはむしろ、真のイノベーションを損なうものとなりかねない。本連合に所属する学会の学問分野が多岐にわたることからもわかるように、そこには多様性が必要であり、医療という出口を目指したものだけが基礎研究として支援されるようなことがあってはならない」「医療イノベーションに向けた研究開発のみを『日本版NIH』で推進することになれば、 具体的な成果に直結する研究が偏重されるようになり、自由で革新的な発想を抱く若手研究者を生み出し育むことができない」とある。
この声明文からわかるように、臨床研究も、人の症例や観察による自由で革新的な発想をドライビングフォースとしたサイエンスであるという事実が基礎研究者には理解されていない。少なくとも筆者はそう感じる。
また、同声明文には「『日本版NIH(仮称)』では、内閣に推進本部を設置し、医療分野の研究開発関連予算を一元化し、戦略的・重点的に予算配分を行うとしている。しかしながら、現在でも米国に比べて予算規模が圧倒的に少ない日本において、医療分野に特化した研究開発を偏重することは、限られた資源配分方針に混乱を招き、学問の自由と未来を奪うことになる。例えば、科学研究費補助金(以下、科研費)は、研究者の自由な発想に基づくボトムアップ型の研究をサポートするほぼ唯一の公的研究資金であり、平成 25 年度を例にとれば、その額は、国の科学技術関係予算 3 兆 5752 億円の 6.5%弱、2318 億円に過ぎないが、これによって支えられている研究者は10万人をはるかに越えている。このボトムアップ型の予算を削減し、国が目標を定めて研究の一元的管理を行う、いわゆるトップダウン型研究を実施する日本版NIH(仮称)に予算を振り向けることにしてしまうと、国際的に見ても圧倒的に手薄い我が国のボトムアップ型研究支援がさらに劣化するとともに、次世代の多様な研究人材育成がおぼつかなくなる」と書かれている。
この部分の主張にも一理あるが、研究者個人の発想により先導される研究テーマ(つまりボトムアップ型研究)でも、その研究者が創意工夫をこらしてトップダウン型の研究費獲得を狙うことは十分可能である。日本国内のトップダウン型研究費の代表である独立行政法人科学技術振興機構(JST)によるERATO、CREST、さきがけ、といった研究プログラムのサポートを受けている研究テーマの中にも研究者の自由な発想による基礎研究は多く存在する。もっともよく知られている例は、ノーベル賞を受賞した山中さんのiPS細胞の研究だ。これは山中さんの独創的なアイデアによるボトムアップの研究提案だが、トップダウン型の典型であるCRESTによってサポートを受けた。
また、米国NIHの研究費 (特にRFA:Request For Applicationsといったトップダウン型のNIH研究費)などを獲得するために、多くの基礎研究者が、それぞれの自由な発想(つまりボトムアップ型)をもとに、柔軟に頭をはたらかせて申請書を作成することで、トップダウン型の研究費を獲得している。(続く)
「日本版NIH」騒動で明らかになった「基礎研究と応用研究を峻別する」という日本の奇妙な研究文化の原因を、引き続き考えていく。
【日本の大学医学部における極度の医師偏重文化の存在】
第三の要因として挙げられるのが、臨床(応用)分野の研究者の基礎研究に対する理解不足である。
日本でも米国でも大学医学部では医師優越文化があるのは確かである。もちろん、患者さんを直接対象とした臨床研究は医師でなければできないし、大学付属病院では医師が診断・治療をする必要があるので、医師優遇は当然である。しかし、いわゆる基礎医学分野(生化学、遺伝学、細胞生物学、神経生物学など)では、医学部であっても米国ではM.D.の学位(Medical Doctor、つまり医師)を持っていないPh.D.(博士号)の教授が多い。例えば、世界の医学研究の中心であるハーバード大学医学部では、いわゆる基礎医学分野全体における教授の74%(188人中140人)がM.D.を持たないPh.D.である。つまり、Ph.D.しか持たない教授の方が多数派である。一方、日本の医学部では、この比率が逆転している。例えば、東京大学医学研究科の基礎医学分野全体では11%(18人中2人)で、京都大学医学研究科でも19%(21人中4人)しかいない。これらのデータから、日本の大学医学部でいかに医師偏重文化が強いかがわかる。
もちろん、このデータからだけでは、日本にはM.D.を持たずに基礎医学の研究をする研究者が、米国と比較して少ないのではないかという解釈ができなくはない。しかし、日本でも生命科学研究科や生命機能研究科といった研究科では多くのM.D.を持たないPh.D.の教授が生命科学の研究をおこなっている。これらの教授は、米国の大学であれば医学研究科に所属するのだが、日本では、医学研究科とは別の研究科を大学でつくって、そこにいわゆる基礎医学分野の教授を配置している。
斬新でワクワク感のあるアイデアが欠如している
今回の日本版NIH構想が、基礎と臨床(応用)の不毛な対立を生んだ背景には、構想自体に斬新でワクワク感のある部分が存在しないという問題もあると筆者は考える。基礎だろうと臨床(応用)分野だろうと、われわれ研究者は独創的でワクワク感満載のことにはわりと寛容である(これは万国共通の研究者気質だと、すくなくとも筆者は思っている)。発表された構想の詳細を読んで、どれだけの研究者がワクワクした感情を抱いたであろうか? たとえいたとしても少数に違いない。
何故、斬新でワクワクさせるような構想に至らなかったのか。予算自体が比較的小規模になったのが要因と考える方々もおられると思うが、筆者はそうは思わない。いくら小さな予算でも、斬新でワクワク感満載の構想は打ち出せるからだ。筆者は、以下のようなことが原因ではないかと考える。
【立案メンバーに多様性がない】
斬新でワクワクするようなアイデアは、多様で優秀な人たちがあつまって知恵を絞り出すことで生まれる場合が多い。しかし、今回の日本版NIH構想を中心になって練り上げた「医療分野の研究開発に関する専門調査会」のメンバー9人の顔ぶれをみてみると(第6回 医療分野の研究開発に関する専門調査会 出席者:資料1を参考)、お世辞にも多様とは言い難い。女性委員は9人中1人であり、委員全員が世代的には均一であり、グローバル委員(例えば、欧米や中国などのNIHに相当する機関のトップレベルの役職員や研究者など)もゼロである。
【世代交代のできない日本の組織】
世代的に均一だという点は、日本版NIH構想を練った専門調査会にとどまらず、日本の組織全体の問題点だと考える。米国では、NIHの歴代所長(Director)のほとんどが40歳後半〜50歳代である。第13代所長のバーナディン・ヒーリー(Bernadine Healy)(女性)は48才、第14代所長のハロルド・バーマス(Harold E. Varmus)(男性)は54才、第15代所長のエリアス・ゼルーニ(Elias A. Zerhouni)(男性)は51才、第16代現所長のフランシス・コリンズ(Francis S. Collins)(男性)は59才で、世界最大の米国NIHのトップポジションに就いている。また、現米国大統領のオバマ氏は40歳代で大統領に就任している。筆者は、このように若くて優秀なリーダーを育て大抜擢できる文化や気質が、国のダイナミズムを生み、大きく前進しようという士気を高めているのだと思う。
しかし、日本では組織における世代交代がなかなか進まない。日本版NIH構想では、2030年ごろまでの医療実用化を目指す多くの戦略が練られているが、2030年ごろに40歳〜60歳で医療現場でリーダーシップをとっているような年代層が委員となって議論をリードすべきではなかったのか。こうしたことができない不器用さが、斬新さやワクワク感のない構想につながったと筆者は考える。
最後にひとこと。平成26年1月22日の総合戦略会議終了後、専門調査会座長の永井良三さん(自治医大学長)が記者ブリーフィングで、「日本版NIHが縮小したということもありますが、小さく産んで大きく育てる。(後省略)」とのコメントをされた。筆者も、新独立行政法人や日本のライフサイエンスやその関連分野が、真の意味で「大きく育つ」ことを切に願う。そのためにも、この論考で述べたことを踏まえて、基礎と臨床(応用)といったナンセンスな区別を永遠に葬り去り、研究者やそれをささえる国民、そして国民の代表である行政や政治が一体となって、予算的には小さくても、もっと柔軟かつ斬新で、研究者そして国民がワクワク感を共有できる制度が打ち出されることを切に願う。