2014年5月22日木曜日

2014522日【朝日新聞Webronza201458日論考】
僕の、朝日新聞Webronza 201458日付けの論考です。掲載後、二週間以上経ったので、朝日新聞に許可を得て、以下にコピーを公開致します。


STAP細胞泥仕合が映し出す現代日本社会の醜さ
~小学校の学級会レベルの理化学研究所


 STAP細胞騒動が暴いた現代日本の問題点のうち、「かくれ小保方」問題を前稿で論じた。本稿では、「固いが頑強でない日本の国、社会、組織」について論じる。

n   記者会見重視の異常な研究評価システム
 筆者は、長年にわたり、米国の国立保健研究所(NIH)の研究費を頂いて研究をおこない、また米国NIHの研究費申請書や研究成果の審査メンバーを務めた。5年前に日本に帰国し、驚いているのは、日本における研究費審査や成果の評価、また大学や研究所の評価が、異常なまでに、新聞、テレビなどのメディアによる報道に大きく影響されているというまぎれもない事実だ。したがって、個人も大学・研究所も、こぞって研究成果をできるだけ多くのメディアに大きく取り上げてもらおうとする。
 筆者の良く知っている米国でも、研究成果を世間に発信するため、また大学・研究所の名声を高めるために、メディアに積極的に働きかける。しかし、それは、一般市民をターゲットにした行為であり、研究費獲得や、それぞれの学術分野の専門家による評価、政府による評価には、こういったメディアによる報道実績は、全く無関係だし影響は皆無だ。
 今回のSTAP細胞の理化学研究所による、メディアを通じての報道は異常であった。筆者は、正直いって、このレベルの研究成果(つまりSTAP細胞の発見)が、各種新聞紙面の一面に取り上げられた事自体、驚いたし、理解出来なかった(この点に関する学術的理由は、また別の機会に発信しようと思っているので、ここでは割愛させていただく)。また、報道の内容は、異常としか言いようのない、理化学研究所による「パフォーマンス」であった。筆者自身、理化学研究所の歴史またこれまでの研究成果に、それまでは最大の敬意をはらっていたのだが、このパフォーマンスを目にしたと同時に、大変失望した。
 今振り返ると、理化学研究所も、研究所の高い評価を得ることに必死であったのだろう。ある意味、日本の「薄っぺらな評価システム」の被害者であったとの捉え方も出来なくはない。筆者の理解するところ、大学や研究所からのメディアを通しての、研究成果の世間への積極的な発信は、そもそもは、研究機関の透明性を高め、税金を使って行われている研究成果を納税者一般へ伝え研究の重要性の理解を得るために奨励されているもののはずだった。しかし、それが、いつの間にか、研究成果や大学・研究所の手っ取り早い評価に使われるようになってしまったのだろう。他人の意見、評判、噂話に、異常なまでに敏感で影響されやすい日本人の一般的な気質が、自然とそういう流れを作り出してしまっているのかもしれない。
 このような評価システムは、日本の歴史に根ざす文化的潮流、日本社会の構造、日本人の気質など、さまざまな多くの要因が複雑に絡まって生まれたものであろう。しかし、これは日本の国、社会、組織が表面的な形式に捕われる(呪われる?)があまり、本質に切り込めず、ただ単に「固い」だけで、「頑強」なシステムをつくりあげられない、ひとつの例なのではないだろうか。

n   カォリジアリティ(Collegiality)の欠如
 1月末に行われたSTAP細胞発見の記者会見から間もなくして、小保方晴子氏による研究不正・捏造容疑が浮上し、理化学研究所が調査委員会を立ち上げ、3月末に小保方氏の研究不正・捏造認定の記者会見が開かれ、それに反論する形で小保方氏による不服申し立て、また笹井芳樹氏による記者会見が行われた。これらの様子をフォローして、筆者は、理化学研究所は、なんとお粗末な組織であろうかと呆れた。まるで、クラス担任不在の、小学校の学級会レベルだ。表面的な手順の正しさ(正確さ)のみを重視するばかりで、本質に切り込めない(切り込まない)、歯切れの悪い、官僚的で風通しの悪い組織の体質が、もろに露出した茶番劇だ。
 頑強な組織であれば、そもそも、その組織に所属している構成員(この場合、小保方氏)が、弁護士同席で記者会見を開いてまで不服申し立てを行うというようなことにはならない。何故、こうなってしまったのであろうか。筆者は、これもまた、理化学研究所が、他の日本の多くの組織同様、「固い」組織であるが、「頑強」ではないためだと考える。では、「弾力性に富んだ頑強な」組織には何が必要なのだろうか。筆者は、そのひとつが、カォリジアリティ(Collegiality)だと考える。
 カォリジアリティ(Collegiality)とは、組織を構成する個々が、それぞれの役割において全面的な責任を担った上で、お互いが上下関係なくフランクに意見を言い合い批判しあえる、風通しのよい環境を指す。これにより、責任は組織内で分散され、個々の意識・責任感が高まり、組織内での問題点に、形式や表面的なことにとらわれないで、さまざまな角度から素早く抜本的な検証がおこなわれ、決定事項は担当者の個々の責任において素早く実行され、阿漕(あこぎ)な悪意や既得権が排除され、組織全体としての仲間意識が高まる。
 組織が大きくなると、カォリジアル(Collegialityの形容詞型でCollegial)な環境を構築・維持するのは、一般的に困難になる。しかし、神戸の理化学研究所(発生・再生科学総合研究センター)のように、大小研究グループ全てあわせても、約25グループの規模であれば、カォリジアルな環境を維持することは十分可能ではないかと考える。内部の詳しい状況は、筆者は分からないが、発生・再生科学総合研究センターに、カォリジアルな環境があれば、そもそも論文投稿前に、小保方氏の間違いに誰かが気づいて対処できていたのではないか。たとえ論文投稿前に誰も気づかなかったとしても、問題の発覚後、調査委員会の立ち上げ方、調査の方法、調査委員会による結論などが、違った経過をとることとなり、小保方氏も自分の犯してしまった間違いを認め、今頃は、小保方氏は、再教育の後、自分の研究に新たな心構えで集中できていたのではないだろうか(もちろん、小保方氏のことを筆者は個人的には知らないので、確実なことはいえないが)。
 しかし、残念ながら、ここまで来てしまった現状では、発生・再生科学総合研究センターが、カォリジアルな環境を構築するのは、至難の技であろう。フラッドゲート(Floodgate=水門、災害を食い止めていたもの)は開いてしまったのだ。まだ、フラッドゲートの開いていない組織は、今からでも遅くはない。今すぐに、官僚的で表面的な中に日本式なれ合い(村社会)を散りばめた組織構造をぶち壊し、弾力性に富んだ頑強な組織づくりに取り組んで頂きたい。カォリジアルな環境が維持できなくなった組織は、日米問わず、ほとんど全てが崩壊への道を歩んだ(歩んでいる)ことは歴史が証明している。

 以上、小保方vs.理化学研究所の泥仕合が映し出す現代日本社会の醜さのいくつかを述べさせていただいた。筆者も、日本で研究に従事する一研究者だ。今回の騒動は、すでに泥仕合になっており、最終的にどういう結果になろうと、勝者がいないことは自明だ。非常に残念でならない。

二度とこのようなことはおこって欲しくない。そういう思いから、本論考でフランクな意見を述べさせて頂いた。