2013年12月26日木曜日

2013年12月26日

日本にきてビックリしていることのひとつに「年齢による差別」。

大学の教授選でも、「XXXくんは研究の業績は素晴らしいが、まだ30才そこそこだからね、、、。」といったことが当然のごとく出てくる。人を年齢で選ぶなよ、です。僕だったら、あえて若くて研究業績がずば抜けていて将来性のある人物を教授に抜擢して活躍してもらう。

それとも、現在教授のひとたちは、自分の半分くらいの年齢の若造を自分とおなじ「教授」というランクにすることが嫌なのだろうか。


平均年齢30才とか40才とかいう教授会があったら、めっちゃカッコいいのに。男女比も1:1だったらもっとカッコいい。

2013年12月20日金曜日

2013年12月20日

以下、2013927日と20131015日に朝日新聞ウエブロンザに掲載された僕の論考です。すでに時効ですのでここにコピーします。


2013年ノーベル医学生理学賞と化学賞を大胆予測する

昨年のノーベル医学生理学賞は、ジョン・ゴードン氏(Sir John B. Gurdon)と山中伸弥さんの「細胞の初期化の発見」に対して与えられた。医学生理学賞では日本人2人目、また初めての100%日本発の発見に対する授賞ということで日本中が沸いた。今年も受賞者発表が間近に迫ってきたので、2013年の医学生理学賞と化学賞の行方を大胆に予測してみる。

今年は、医学生理学賞が「細胞のホルモン、神経伝達物質などの放出メカニズムの発見」、化学賞が「たんぱく質の折りたたみ機構をになう分子構造の発見」であると筆者は予想している。以下にそれぞれの発見について簡単に説明し、受賞の可能性のある研究者をあげてみる。

医学生理学賞:「細胞のホルモン、神経伝達物質などの放出メカニズムの発見」

われわれの身体は60兆以上の細胞が集まって成り立っている。それぞれの細胞が身勝手にふるまっていたのではわれわれの身体は正常に機能しない。細胞同士が相互にコミュニケーションをはかる必要がある。例えば、細胞内でつくられたホルモンが細胞の外に放出され、それが血管などを通して他の細胞へ作用する。もし細胞からホルモンが放出される機能に異常がおこると、身体の成長、血圧調節、心臓や腎臓のはたらき、血糖値の調節、といったさまざまな身体のはたらきの調節機能に不具合が生じてしまう。時には生死にも関わる。

また、脳においては神経細胞同士のコミュニケーションが神経伝達物質によっておこなわれている。コンピューターに例えると、電子回路の電子に相当するのが神経伝達物質である。神経細胞からの神経伝達物質の放出に異常がおこると、脳の中の情報伝達に障害がおこり、神経疾患や記憶障害がひきおこされる。また、心臓や、われわれの身体の動きを調節している筋肉などのはたらきも、脳の外にある末梢神経細胞から放出される神経伝達物質により調節されている。したがって、これに障害がおこると心機能に異常を来したり、身体の筋肉の動きを調節できなくなってしまったりする。

以上からわかるように、細胞からのホルモンや神経伝達物質の放出は身体のさまざまな機能調節に必須であり、その異常は生死に関わる。この細胞外へのホルモンや神経伝達物質の放出メカニズムを1970年後半から1980年代にかけて発見したのが、米国の2人の研究者、ジェームス・ロースマン氏(James Rothman・現エール大学教授)とランディー・シェックマン氏(Randy Schekman・現ハワードヒューズ医学研究所研究員兼カリフォルニア大学バークレー校教授)である。

この2人が今年は有力ではないかと筆者は思っている。ノーベル賞は3人まで受賞できるので、もしかするとドイツの研究者であるラインハルト・ヤン氏(Reinhard Jahn・現マックスプランク研究所所長)、また米国のリチャード・シェーラー氏(Richard Scheller・現ジェネンテック社上級副社長)、ドイツ生まれで米国研究者のトーマス・スードフ氏(Thomas C. Südhof・現スタンフォード大学教授)の内の誰かひとりも選ばれるかもしれない。彼らは、神経伝達物質の放出メカニズムの発見という観点から1980年代に大きな貢献をした。

化学賞:「たんぱく質の折りたたみ機構をになう分子構造の発見」

生命機能にとって必須の物質のひとつであるたんぱく質の設計図は、細胞内にあるDNAに刷り込まれている。DNAからRNAという物質を介してたんぱく質は細胞内でつくられる。しかし、たんぱく質はそのままでは正常には機能できない。RNAから合成された後、適切な三次元構造へ折りたたまれてはじめて正常に機能できる。アルツハイマー病、ハンチントン病、筋萎縮性側索硬化症などの神経疾患は、たんぱく質が正常に折りたたまれないことが原因であるとも考えられている。

たんぱく質がどのようなメカニズムで正常に折りたたまれるのかは長年不明であったが、1980年から1990年前半にかけての研究で、「シャペロン」と呼ばれているたんぱく質の助けで正常に折りたたまれることが明らかになった。シャペロンを発見し、シャペロンと複合体をつくることでたんぱく質が折りたたまれるメカニズムを原子・分子構造レベルで明らかにしたのがドイツのフランツウーリック・ハートル氏(Franz-Ulrich Hartl・現マックスプランク研究所所長)と米国のアーサー・ホーウィッチ氏(Arthur L. Horwich・現エール大学教授)のふたりである。

今年のノーベル化学賞は、この2人になる可能性が高いと筆者は考える。原子・分子構造レベルでの研究は故ポール・シグラー氏(Paul B. Sigler・当時エール大学教授)とホーウィッチ氏の共同研究なので、仮にシグラー氏が存命であれば彼も入っただろう。

以上が筆者の予想である。仮に今年はだめでも、数年のうちにはこれらの発見者が受賞するであろう。



何故わたしのノーベル医学生理学賞の予想が的中したか

今年927WEBRONZA掲載の筆者のノーベル医学生理学賞予想が的中した。10月7日に発表された受賞分野ならびに受賞者3人ともを予言できたわけである。残念ながら化学賞の方は予想がはずれた(もっとも「今年がだめでも数年の内には」と書いたので、まだはずれたとはいえないかもしれない)が、実は医学生理学賞にはかなりの自信があった。というのは、以下のような背景や理由があったからである。長年、米国で研究生活を続けたからこそ、見えてきたことによる推理と言えばいいだろうか。

筆者が米国で博士号を取得し、ポスドクそして自分の研究室を主宰していた1980年代後半から90年代前半に、今回ノーベル医学生理学賞を受賞したジェームス・ロースマン氏(James Rothman)とランディー・シェックマン氏(Randy Schekman)は、前者は動物細胞を使った生化学的手法で、そして後者は酵母を使った遺伝学的手法で、次から次へと細胞内たんぱく質が膜輸送によって細胞外へ放出されるメカニズムを明らかにしていった。当時、筆者をふくめた多くの研究者が、これらの一連の発見の生物学における重要性、発見自体のエレガントさ、そして他の研究グループに対する圧倒的優位性から、この2人は必ずやノーベル賞を受賞するであろうと思っていた。実際、2002年にはノーベル医学生理学賞への登竜門といわれているラスカー賞をこの2人は受賞した。それ故、次はノーベル賞だというのが、われわれ米国の研究者の間でのもっぱらの噂だった。

しかし、その栄光はなかなか訪れなかった。2009年にノーベル賞を受賞したのは、2006年にラスカー賞を受賞したエリザベス・ブラックバーン(Elizabeth Balckburn)、キャロル・グライダー(Carol Greider)、ジャック・ショスタック(Jack Szostak)だった。テロメアーを伸長する酵素であるテロメラーゼの発見の業績に対してである。2011年には、2007年のラスカー賞受賞のラルフ・スタインマン(Ralph Steinman)が免疫において重要な役割を果たしている樹状細胞の発見でノーベル医学生理学賞を受賞、また、2012年に受賞したジョン・ガードン(John Gurdon)と山中伸弥は、2009年のラスカー賞受賞者だった。このように、ロースマン氏、シェックマン氏より後にラスカー賞を受賞した研究者たちが次から次へとノーベル医学生理賞を受賞していったため、ロースマン氏とシェックマン氏はノーベル賞受賞の時期をもはや逃してしまったと思われていた。

しかし、今年(2013年)9月9日にラスカー賞の発表を聞いて筆者は驚いた。トーマス・スードフ氏(Thomas Südhof)とリチャード・シェーラー氏(Richard Scheller)の名前を聞いたからである。彼らは、神経細胞が神経伝達物質を細胞内膜輸送によって放出されるメカニズムを分子レベルで解明した研究者であり、以前ロースマン氏とシェックマン氏がラスカー賞を受賞している分野に非常にかぶっているからだ。このように同じような分野が再度ラスカー賞の受賞対象になるのはとても稀である。
その時、筆者がすぐに思ったのは、スードフ氏は筆者が以前教授をしていたテキサス大学サウスウエスタン医科大学において、1985年にコレステロールの研究でノーベル医学生理学賞を受賞したジョセフ・ゴールドシュタイン(Joseph Goldstein)とマイケル・ブラウン(Michael Brown)の愛弟子であり、この2人に大変その能力を認められていたことである。また、シェーラー氏は2004年に嗅覚の分子メカニズムの発見でノーベル医学生理学賞を受賞しているリチャード・アクセル(Richard Axel )と2000年に記憶の分子メカニズムの発見でノーベル医学生理学賞を受賞しているエリック・カンデール(Erick Kandel)の、米国ニューヨークにあるコロンビア大学での愛弟子で、両氏に大変認められている研究者である。
筆者は、スードフ氏もシェーラー氏も個人的によく知っており、また、2人の師匠であるゴールドシュタイン、ブラウン、アクセル、カンデールを個人的に大変よく知っている。米国では、この4氏の医学界における情報収集力また様々な国際賞における影響力の大きさはつとに知られている。

ここからは筆者の推測になる。おそらく10月に発表されるノーベル医学生理学賞にロースマン氏とシェックマン氏が入っているであろうことをゴールドシュタイン、ブラウン、アクセル、カンデール等が何らかの方法で嗅ぎ付け、スードフ氏とシェーラー氏をノーベル医学生理賞候補として強く推した。そして、万が一、ノーベル医学生理学賞を逃しても、ラスカー賞をスードフ氏とシェーラー氏に受賞させることで自分たちの愛弟子に栄誉を与えられると考えたのであろう。これが、2人のラスカー賞受賞を聞いて筆者がすぐに思いついたことである。

だから、自信をもってピンポイントで予想をWEBRONZAに書いたのだった。


結局のところ、ノーベル賞受賞には、飛び抜けた発見・発明を成し遂げることのほか、人脈も重要ということである。

2013年12月19日木曜日

2013年12月19日

僕にとっては「研究」はとっても崇高な宝物。それを、個人の私物化するような下品な扱いは受け入れられないし、許せない。個人の私物化とは「研究不正」「就職活動のための手段」「有名になるための手だて」などなど。

2013年12月18日水曜日

2013年12月18日

僕は、組織(僕の場合は研究グループ)をつくって運営するときは、その組織(研究グループ)の中のひとりひとりに具体的な仕事を与えて、各人がそれぞれの仕事のボスとして責任をもって仕事をやってもらう、というやり方をずっとしてきた。僕は、そのほうが各人が(責任=やりがい)という意識がでると思っていた。

しかし、日本の組織では、できるだけ責任を多くの人たちに分散することで、あるひとりの人が責任を負わなくていいように仕事も分散させる。つまり、(責任=やりがい)という方程式は日本では成り立たない。逆に(責任=萎える、酷)ということになってしまうらしい。


この日本のやりかたと僕の感覚はかなりギャップがある。なので、僕が「ひとりひとりがそれぞれの仕事を責任をもってやりましょう」といっても多くの日本人にとっては無理だし酷なことなのかもしれない。

2013年12月15日日曜日

2013年12月15日

朝日新聞ウエブロンザに2013829日に掲載された僕の論考を、既に時効なので朝日新聞社に許可を得て、以下にコピーします。


乳がん死防止法の発想転換を迫る女性研究者の最新成果

 乳がんは女性がかかりやすいがんの第1位であり、日本人女性の18人に1人が生涯で乳がんを患う(「がんの統計’09」財団法人がん研究振興財団より)。罹患者数は年々増加しており、2000年には37,389人だったが2004年には50,549人になった(「地域がん登録全国推計によるがん罹患データ(1975年~2005年)」国立がんセンター がん対策情報センターより)。また、乳がんでの死亡者数も2000年の9,171人から2008年の11,797人へと年々増加している(「人口動態統計によるがん死亡データ(1958年~2008年)」国立がんセンター がん対策情報センターより)。
 乳がんによる死亡は、肺、骨髄、脳など他の臓器への転移によることがほとんどである。そこで、触診やマンモグラフィーの定期検診による乳がんの早期発見・早期治療をし、転移を防ぐことが重要になってくる。
 しかし、多くの場合、発見時点で既にがん細胞は他の臓器へ転移している。それでもがんが微小であるため初期の場合ほぼ確実に見つからない。転移したがん細胞が発見できる大きさに成長するには10年以上かかる場合が多い。つまり、乳がん発見の時点で、がん細胞はすでに他の臓器へ転移している可能性が高く、転移したがんは10年以上発見されず、転移巣が発見された時には既に手遅れである場合が多い。死亡を避けるには転移を抑える、あるいは転移後のがん細胞の増殖を抑えることがカギになる。
 今年7月のネイチャー・セルバイオロジーという世界的に権威のある国際誌に、乳がん細胞が他の臓器に転移し、転移後どういったきっかけで突然増殖し始めるのかをマウスなどの動物実験で明らかにした、との論文が報告された。発表したのは、米国カリフォルニア州にあるローレンス・バークレイ国立研究所の乳がん研究グループである。このグループを率いるイラン系アメリカ人のミナ・ビッセルさんは、乳がん研究の世界的権威であり、女性研究者のロールモデルとしても有名だ。彼女は、大学院1年生の時に女児、その数年後に男児を出産した。現在では2人の子は成長し、3人の孫にも恵まれている。妻、母、祖母、研究者として大活躍しており、若い女性研究者から憧れられる存在だ。
 今回は彼女のグループのこの最新研究成果(Nature Cell Biology, Volume 15, pp.807 – 817, 2013)の概要を紹介し、乳がん撲滅の将来的展望を論ずる。
 研究成果の第一のポイントは、乳がん細胞は転移先の臓器にある正常な血管の細胞に張り付いた状態で存在すると見いだしたことだ。この状態では、血管から継続的に分泌されているTSP-1というたんぱく質によりがん細胞は休眠状態にあり、転移した臓器の血管に張り付いて1〜数個の細胞のまま長期間生き続ける。現在の診断技術では、このような少数の転移がん細胞を発見することは不可能である。そして、何らかのきっかけで転移先の臓器において炎症がおこった場合、血管が刺激を受け、がん細胞の増殖を促進する作用のあるペリオスティン、テネイシンC、フィブロネクティン、TGF-βといったたんぱく質を分泌し始めることも見いだした。その結果として、転移したがん細胞が増殖する。休眠状態にあったがん細胞は、転移先の臓器で炎症がおこると急激に増殖し、周りの組織を破壊し始めるのである。
 つまり、乳がんが肺などに転移しやすいというのは間違いであり、肺などの臓器は「転移後に増殖しやすい(増殖する可能性の高い)」環境なのである。肺は空気中の有害物質あるいは喫煙(受動喫煙も含む)による障害を受けやすく、それらの刺激により炎症がおこりやすい。だから、肺で乳がん細胞が増殖する場合が多いのだ。大きな転移巣ができてしまうと、臓器不全でヒトは死に至る。
 今回の発見によると、転移したがん細胞が増殖するのを抑えることさえできれば、がん細胞は休眠状態のままなので身体に害をおよぼすことはない。つまり、転移している1〜数個の乳がん細胞を休眠状態のままにしておくことで臓器不全を引き起こすのを予防する治療のほうが、がん細胞の転移を防ぐ治療より現実的であり、乳がんによる死亡を防ぐことに直接つながると考えられる。
 では、乳がん細胞を休眠状態のままにするための予防治療としてどういったことが考えられるだろうか。先ずは、臓器に炎症がおこらないようにつとめることであろう。肺であれば、能動喫煙、受動喫煙ともにゼロにすべきである。また、炎症を抑える(抗炎症薬など)予防治療も考えられるかもしれない。

 今回の研究は、あくまで動物モデルをつかった初期段階での研究成果であり、これからさらに詳細なメカニズムが明らかにされ、またヒトでの研究や臨床試験などを経る必要がある。しかし、乳がん死撲滅への大きな第一歩であることは間違いない。また、彼女のような妻、母、祖母、ひとりの人間、また研究者として多くの人たちに尊敬されている女性が、このような大きな発見をしたということも特筆されるべきである。

2013年12月12日木曜日

2013年12月12日

日本の大学に比べて、なぜアメリカの大学(例えばコーネル大学)の事務が手際よくわかりやすいかと考えてみた。

アメリカだと、それぞれの事務の部署にその道のプロで専門のひとがいて、その人にある程度の裁量と決断が任されている。そのかわり、その人に大きな責任もかかってくる。一方、日本の大学だと、「だれも責任を取りたくない」ために、「誰にも裁量、決断などの権限がないし、よって誰にも責任がない」。したがって、ひとつのことを決めるのに、大勢の承諾がいる。「大勢が承諾したのだからいいだろう」といった論理。


困ったもんですね。

2013年12月11日水曜日

2013年12月11日

僕の2013611日付けの朝日新聞ウエブロンザ論考です。すでに時効ですので朝日新聞社の許可を得てここのコピー致します。


「大学入試センター試験」の廃止を歓迎する
 政府の教育再生実行会議(座長=鎌田薫・早稲田大学総長)が大学入試センター試験を5年後をメドに廃止し、高校在学中に複数回受けられる全国共通の「達成度テスト」(仮称)を創設して大学入試に活用する検討を始めた。筆者は共通一次と呼ばれていた30年以上前から、こういう試験に大反対であったので、「やっと」という気持ちが強い。高校在学中に複数回受けられ、受けた中で最も良い成績を受験したい大学へ提出するという方式は、米国で90年間弱続いているSAT(Scholastic Assessment Test)とほぼ同じである。そこで、米国の大学で長年、教育研究に携わってきた経験をもとに、米国のSATとその大学入試への活用方法を紹介すると同時に、日本で始まるであろう「達成度テスト」(今流行の言い方でいえば「日本版SAT」)への筆者の意見を述べたい。
 SATCritical Reading, Mathematics, Writingの3つのセクションからなる。これらは、日本語で言い換えればそれぞれ、読解力、算数、作文である。毎年7回実施されている。その中で受けたいときに受けて、最もよいスコアを受験したい大学へ提出する。全米の総受験者の正解率の中間がだいたい6割〜7割くらいになる。つまり、基礎的な問題ばかりで、まじめに勉強している高校生なら8〜9割は確実に正解できるレベルのテストである。したがって、日本で今まで行われてきたセンター試験のように1点を争うようなテストとは根本的に違う。基礎的な学力を身につけているか否かを判断するための「ひとつの材料」である。
米国の大学入試では、SATのスコアはひとつの指標に過ぎない。高校の成績、これまでの活動(ボランティア活動、自由研究、コンテストなどの受賞歴、スポーツなど)、複数の推薦状、小論文、面接、などを総合して、それぞれの大学がそれぞれの大学の教育方針や運営方針に基づいて適切と判断された学生を合格にする。極端にいえば、大学への合否は、大学の「独断と偏見」により判断される。
 「日本版SAT」のセンター試験とのもっとも大きな違いは、年に複数回受験することができ、その中で最も良いスコアを大学へ提出できる点だと筆者は考える。これは、とても良いことである。これまで、中・高・大、そして就職において「一発勝負」、そして一度落ちこぼれたら二度と這い上がれないようになっている(としか思えない)日本社会においては、大改革であることは間違いない。とても良い方向転換である。一方、「日本版SAT」が日本に定着するにはいくつかのハードルをクリアする必要があると考える。

■   「日本版SAT」は入学試験ではなく、学力検査であるという大前提を認識し理解する。
たとえ複数回受けられるようになったとしても、「1点でも良い点をとる」という指導を高校、予備校、親が行うと何も変わらない。これを防ぐには、大学側が「100点満点で60点だと難しいですが、80点であろうと85点だろうが合否にはまったく関係ないですよ」ということを公言することが重要であろう。

■   各大学がそれぞれの大学の独自の教育方針、運営方針を自由に打ち出し、それらに適した学生を選ぶことのできる独自の選抜方法を施行する。
これは大学にとって大きな負担となるが、「人」「将来の人材」を選ぶのであるから、時間と労力をかけて当然である。大学の最重要課題である。これを全ての教員に押し付け、教員が「また雑用が増えた」と愚痴をこぼすことのないように、「リクルーター」教員のような専門職を各大学でつくり組織化して取り組むべきである。

■   「公平性が保たれるのか」といった日本で定番の苦言を徹底的に排除する。
「日本版SAT」に対しての最も大きな反対意見のひとつに「公平性が保たれるのか」というのがあると報道されている。これは、高校の施設が試験会場となることや、複数回受験できることに対する意見であろうと想像するが、いい加減、何かと言えば「公平性」という言葉に執着する国民性からそろそろ脱皮するときではなかろうか。「公平性=ひとつの物差し」ということに気づいてもらいたい。現代を生き抜くには多様性が必要不可欠である。「公平性=ひとつの物差し」はそのような時代に逆行する。ひとりの人間にとっての「不公平」は他人にとっては「公平」である可能性があるということにそろそろ気づいてほしい。それを大前提に社会をつくっていくためには、ある意味「不公平な受験制度」は必要ではないかと筆者は考える。

 筆者は「大学入試センター試験」の廃止と「日本版SAT」の創設に大賛成である。しかし、以上の点がクリアされないまま「日本版SAT」が開始されると、結局何も変わらず、表面的な入試の方法が変わっただけに終わってしまう。「出願者の個性や適性を多面的に評価して合格者を決める」として始まったAO(アドミッション・オフィス)入試もいまだに定着せず、逆に廃止の方向に向かっている大学が多くある。「日本版SAT」もAO入試の二の舞になりはしないか。筆者はそれを恐れる。日本にとって、大学改革はきわめて重要な課題だ。是非、入試が改革され、真の人材教育が日本でも始まることを痛切に望む。


2013年12月10日火曜日

2013年12月10日

何かがうまくいくとみんなのおかげ、うまくいかないとまわりが悪い。こういうのが蔓延しているけど、じゃあ自分はどうよ、という自己責任・自己管理に関しては誰もなかなか問われない。これはただ単に未熟なだけでしょ、と思わざるおえない。

2013年12月9日月曜日

2013年12月9日

僕は、「忠犬ハチ公」を育てる教育はしたことないし、興味もこれまで全く無かった。

しかし、「忠犬ハチ公」を育てることも、日本社会においては必要悪的な教育なのかな。

「忠犬ハチ公」を育てる教育をすることで、それに猛烈に反発する「有望」な人材も育つのかもしれないのかな。また、「忠犬ハチ公」になることで救われる若い人たちもいるのかもしれない。


この点に関して、もう少しいろいろな側面から考察してみようと思う。

2013年12月7日土曜日

2013年12月7日

今日は東京。今回は、新幹線ではなく、関空から羽田へ飛行機。

2013年12月4日水曜日

2013年12月4日

朝日新聞ウエブロンザに2013417日掲載された僕の論考を、すでに時効なので朝日新聞から許可を得て、以下にコピー致します。


国立大学法人の教員にもある「追い出し部屋」

 「追い出し部屋」。会社から戦力外とされた社員に、まったく仕事を与えなかったり、本人の意に沿わない仕事をさせたりして、会社に残る気持ちをなくさせ、自主的に退職させようとするために、設置された部署のことをいう。国による、その実態調査が最近おこなわれており、違憲性を含めてさまざまな議論がなされている。
 じつは、「追い出し部屋」は民間企業だけではなく、大学にも存在する。私自身、日本の国立大学に4年前に着任し、その実態を目のあたりにし、その陰湿性に大きなショックを受けた。そこで、筆者の知っている範囲で、国立大学における大学教員の「追い出し部屋」の実態とその問題点を論ずる。
 日本の国立大学における「追い出し部屋」の問題の根本にあるのは、いまだに、教授−准教授(2007年以前は助教授と呼ばれていた)−助教というピラミッド型が存続し続けていることである。すなわち、准教授も、助教も、教授の教育・研究を「助ける」ことを職務としているため、教授が異動、あるいは定年退職した後は、宙ぶらりんの状態で大学に残る場合が多いのである。たとえ、新しい教授が着任しても、前任の教授が雇った准教授、助教は「追い出し部屋」配属のような扱いをうけ、できるだけ早く他へ転出してもらい、新任の教授が、自分の欲しい准教授、助教を雇用できるように計らわれる(国立大学の法人化以降、教員人事は大学レベルでおこなわれるため、教授が准教授、助教を雇用することは書類上ないのだが、実際には、教授が雇いたい准教授、助教を、大学が任命するといった形式がとられる場合が多い)。
 2007年に学校教育法が改正されて、大学におけるピラミッド構造は解消されたはずだった。助教の職務について、改正学校教育法第92条の8項では「専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の知識及び能力を有する者であって、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する」と定めている。教授や准教授の研究、講義を補助する義務はなく、講義ができる専任教員としてカウントされているのである。
 2007年より前は助手はもちろんのこと、助教授も「助教授は、教授の職務を助ける」と規定されていた。つまり、法律の定義上、助教授の職務は、研究への従事ではなく教授の補佐であった。しかし、2007(平成19年)4月1施行の「学校教育法の一部を改正する法律」によって、「准教授」という名称とその定義が定められ、「助教授」という職階は廃止された。現在の学校教育法927項では、「准教授は、専攻分野について、教育上、研究上又は実務上の優れた知識、能力及び実績を有する者であって、学生を教授し、その研究を指導し、又は研究に従事する」と定義されている。よって、教授を「助ける」職務ではない。
 つまり、形式上は准教授、助教は、教授からは独立したポジションである。ところが、実際には、いまだに、准教授も助教も、教授の担当する教育、また教授が代表をつとめる研究プロジェクトの一部を担当する場合が多い。学生の教育にいたっては、いまだに准教授は学生の主指導教官になれない場合が多い。最近、独立型(テニュアトラックともいわれる場合がある)准教授というポジションができ、その場合は、教授とは完全に独立し、教育、研究を行う場合もある。しかし、助教の場合は、ほとんど教授の補助である。学生の研究指導も、教授から独立して行うことはほとんどないし、主指導教官にもなれない。
 このような実情では、特に、助教は教授が異動、定年退職をした場合、教授不在となり、学生の研究指導も行うことができない。授業も教授の補佐としてやっていたので、教授不在となると授業を受け持つこともほとんどない。自分で外部研究費をとってきている場合は、その研究を行えるスペースを与えられ、そこで、細々と研究をすることになる。学生を指導する機会は極端に減る(または、皆無)。まさに、「追い出し部屋」である。
 この状態を改善するには、教授−准教授−助教というピラミッド構造を完全撤廃し、それぞれ独立して、学生の教育、研究に従事するシステムをつくるしかない。教授、准教授、助教は、「教員間の上下関係」ではなく、「個々人のキャリアラダー(昇進のはしご)」として位置づけされるべきである。
 それがなかなか実現しない理由の一つは、教授会の存在である。大学では、教授会が大きな権限をいまだに持っており、そこで様々なことが決定され、その決定を大学が承認するという形がとられている。教授会メンバーは教授(准教授が含まれる場合もある)で、助教は含まれていない。当然、教授は自分の既得権を守ろうとするため、自分たちの立場を脅かすようなことを決定しない。よって、助教(または准教授)は、いつまでたっても「教授の補佐」のままである。よって、この問題を解決するには、教授会の権限を無くすか、縮小する必要がある。
 民間企業での「追い出し部屋」の実態を、現在、国が調査している。その結果に基づいて職場環境の改善を、国が先導して行うというのが目的である。しかし、そういっている国の機関の一つである、国立大学法人の教員にも、上述した「追い出し部屋」のような状況が蔓延している事実に目をつぶって、民間企業のみ対象にするのは理にかなっていない。いわゆる、「自分のことは棚にかげて」ということである。

 筆者は、国にお願いしたい。即刻、国立大学法人における教員の「追い出し部屋」実態調査を開始し、その結果に従い、教員の職場環境改善につとめるよう、全国立大学法人に勧告を発令して頂きたい。

2013年12月2日月曜日

2013年12月2日

朝日新聞Webronza2013322日)に掲載された僕の論考です。すでに時効なので、朝日新聞の許可を得て、以下にコピーします。


高校生の科学研究から見える日米の大きすぎる差

 高校生による科学研究コンテストとして米国が世界最高峰と誇りにしている「インテル・サイエンス・タレントサーチ(Intel Science Talent Search: Intel STS)」の2013年の最終結果がこのほど発表された。STSは、1942年にウエスティングハウス(Westinghouse)がスポンサーとなって始まり、1998年からは、現在のインテルがスポンサーになった。優勝者には賞金$100,000(約950万円)が奨学金として授与される。また、約70年の歴史の中で、このコンテストの入賞者から、ノーベル賞受賞者7人、数学のノーベル賞といわれているフィールズ賞受賞者2人のほか、世界の各分野の天才たちに与えられるマッカーサー財団フェローシップ受賞者(11人)や米国科学アカデミーメンバー(30人)も輩出している。まさに、世界最高峰の「科学者の卵」発掘コンテストに恥じない実績である。
 日本国内でも、高校生科学技術チャレンジ(Japan Science & Engineering Challenge:JSEC)が2003年から行われている。朝日新聞社の主催で始まり、2011年からテレビ朝日も主催者に加わった。JSECは、上記のSTSの国際版である「インテル国際学生科学フェア(The Intel International Science and Engineering Fair: ISEF)」の国内予選をも兼ねている。
 筆者は、米国で研究・教育を行っていた25年あまりの間に、数名の高校生にSTSにエントリーするための研究指導をした。また、日本に来てからの3年間あまりで、JSECへ向けての研究指導を数名の高校生におこなってきた。両方の経験ならびにSTS2013年)とJSEC2012年)の入賞研究を比較すると、日米のあまりに大きな違いが見えてくる。

 まず、STS2013年)入賞研究で、筆者の専門分野である生命科学・医科学に関連するものの一部を紹介する。

・  「持続可能なエネルギー源としての藻類バイオ燃料の効率化:脂質合成増強種の人工的選択」(優勝)
・  「バイオインフォマティクスによるヒト疾患に関わる内在的異常タンパク質の同定と解析」(2位)
・  「グローバル神経ネットワーククラウドサービスを用いた乳がん診断」(8位)
・ 「ガン治療新規ターゲットとしてのKLF6ガン抑制因子の翻訳後調節部位の同定」(入賞)
なお、テーマ名は英語原文を筆者が意訳した。

 一方、JSEC2012年)では以下のようなテーマが入賞した。

・   「ゾウミジンコの走性に関する研究」(科学技術政策担当大臣賞)
・   「闘蟋(とうしつ):コウロギの闘争行動解析」(花王賞)
・   「オヤニラミの闘争行動を引き起こす刺激」(テレビ朝日特別奨励賞)
・   「サンショウウオの飼育下での繁殖方法の確立を目指して」(審査委員奨励賞)

 これらの入賞研究テーマを比べるだけでも、その差は明らかだが、以下に筆者の経験を踏まえた考察を述べよう。

【2人以上のグループ研究(日本)vs. 単独個人研究(米国)】
 それぞれの入賞研究をおこなった高校生を調べると、日本のJSEC2012年)は、すべてが2人以上の高校生によるグループ研究である。一方、米国のSTS2013年)入賞研究の全てが、ひとりの高校生による個人研究である。この違いは特筆すべき点である。
 筆者が米国で指導した高校生全員が、個人研究であった。グループ研究はひとつもなかった。一方、日本で指導を引き受けたJSECやその他の研究コンテストへのエントリーを目指した高校生の研究のほとんどがグループ研究である。
 また、米国の場合、高校生が自分で、筆者のような大学などの研究者に直接、「研究をさせてくれ」とコンタクトをとってくる。しかし、日本では、すべての場合、学校を通じて、高校生の研究指導のお願いがくる。米国では、高校生は、いわば准大人とみなされ、少しずつ自己責任を身につけさせ始められる時期である。つまり、徐々に大人になるようにしむけられる。しかし、日本では、高校生は、まだ子供であり、守って当然、守られて当然、という風潮がある。
 日本では、大学(あるいは大学院)を卒業するまで「学生=子供」として「取り扱い注意」のレッテルが貼られる。しかし、就職と同時に“突然”大人として扱われ、大人であることが要求される。また、社会に出てからも、日本人はどうもひとりでの単独行動を、なかなか行わない、行えない、行うとまわりからとがめられる(協調性に欠けるなどの理由から)、という傾向がある。
 これらの、日米間の違いが、高校生の研究を行う単位(つまり、グループ研究と個人研究)の傾向にも現れているのではないかと筆者は考える。

【身近にある題材(日本)vs.最先端の研究題材(米国)】
 研究テーマのタイトルから歴然とみえるのは、日本のJSEC2012年)入賞研究のほとんどが、生活の身近にあるものを題材としていることだ。一方、米国のSTS2013年)入賞研究のほとんどが、そのまま科学専門誌の論文タイトルとして通用すると言う点である。この違いには、いろいろな要因があると考えられるが、一番の理由は、やはり、日本では、高校生は子供だ、とみなされ、子供らしい身近な題材を取り上げることが周り(つまり、指導、あるいは評価する側)から好まれるからだと、筆者は考える。一方、米国では、高校生は准大人であり、STS2013年)へエントリーするような高校生は「科学者の卵」であるとみなされ、審査する側も、そういった目で評価するのだと、筆者は考える。

【不思議からはじまり、不思議におわる研究(日本)vs. 不思議からはじまり、社会への還元をめざす研究(米国)】
 日本のJSEC2012年)入賞研究は、好奇心を追求するのみに徹底しているように感じる。筆者の研究室で高校生たちを指導していても、日本の高校生の多くは、純粋に「不思議」という思いをそのまま素直に研究し、それで満足しているように思う。一方、米国で高校生を指導していて感じたのは、彼ら彼女らも最初は「不思議」といった好奇心から研究を始めるのだが、常に、その研究が最終的に社会へどのような形で還元されるのかを考えていることだ。また、周りも、高校生にそのように考えることを求めている。したがって、米国のSTS2013年)では、バイオエネルギー、病気治療など、応用先が明白な研究テーマが多い。
 この日米間の違いに関しては、賛否両論であると感じる。大発見は、かなり高い確率で、思わぬところから起こる。したがって、あまりにも応用を意識しすぎると、思わぬ大発見は起こりにくくなる。一方、大学や研究所での研究は、多くの場合、国民の税金でおこなわれるものであるから、それなりに、社会への還元が求められるのは当然である。
 筆者は、両方のタイプの研究が必要だと思うが、高校生なら、少しでもよいので、それぞれの研究の社会への還元の可能性を、自分で説明できるようになることは必要だと考える。


 以上、日米間には、それぞれの文化や精神的・社会的構造などの違いから、高校生による研究ひとつをとっても、大きな違いがあるとわかる。この違いを、「日本は日本だから」と維持したままでいいのだろうか。グローバル化した社会においては、ひとりひとりが大人として行動できることが、前提となっている。だから、日本も高校生ぐらいから少しずつ段階的に「責任感ある個人としての大人」へと成長できる社会構造に変わるべきではないかと筆者は考える。

2013年12月1日日曜日

2013年12月1日

僕の2013227日掲載の朝日新聞Webronzaの論考です。すでに6ヶ月以上前のものなので、朝日新聞に許可を得て以下にコピーします。

iPS細胞を用いた臨床試験と「人体実験」を分けるもの

 目の難病である加齢黄斑変性に対して、iPS細胞を用いた臨床試験が始まる見込みになった。神戸市の先端医療センターの倫理委員会が、「安全性についての結果を臨床委員会に報告する」という条件付きで、同センターでの臨床試験を承認したのである。国が承認すれば、世界で初めてのiPS細胞を用いての臨床試験がiPS細胞の発明された日本で始まる。この臨床試験は安全性の確認が主な目的になっている。
 そう聞くと、「安全性もまだ100%わからないのに、ヒトに直接つかって、安全性を確認しようとしているのか。これは、人体実験ではないか」という素朴な疑問が出てくるかもしれない。そこで、再生医療を含めた生命科学の研究をしている立場から、人体実験と臨床試験の違いは何なのかについて、筆者の意見を述べる。
 まず、ヒトで試す前に、動物で安全性を確認すればよいではないか、という意見があると思われる。もちろん、そうである。iPS細胞の場合も、数えきれないほどの動物実験で安全性、また、有効性を確認した。すべての薬、治療法において、培養細胞、動物をつかって安全性、有効性をまずは確認する。しかし、残念なことに、多くの薬が、培養細胞や動物では、有効であり、安全性も確認されたにも関わらず、ヒトではまったく効かない、あるいは毒性が出てしまう。
 先日、国際的に評価の高い、米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences,)に、これまで日常的に薬の効果をみるために使われてきた動物(ネズミ)と、ヒトでは、同じ炎症によって引き起こされるさまざまな疾患に対しての遺伝子レベルでの応答にほとんど共通性がないことが報告された。実際、病原体によって引き起こされる全身性炎症反応症候群(SIRS)のひとつである敗血症でも、これまで動物実験で効果があるといわれた150以上の薬の全てがヒトではほとんど効かないことがわかっている。アルツハイマー病も動物実験では効果のある薬が数多く存在するが、いまだにヒトのアルツハイマー病を治すことのできる薬は存在しない。つまり、動物で効果のある薬の大部分がヒトでは効かない、といっても過言ではない。
 したがって、動物実験で毒性が無く、効果があると確認された薬や治療法も、ヒトの疾患で効果があるか、毒性が無いか、ということは実際にヒトでテストするまで解らないという側面がある。動物実験の段階で、対象となるヒトの疾患と同じような症状を持つ動物モデルを選び、長い年月と膨大な研究開発費を使って、大学、研究所、製薬会社は、最も効果があり毒性の少ない「可能性」をもった薬・治療法を選別していくのである。それらの結果をもとに、ヒトの患者に対して臨床試験を行うための許可を、臨床試験を行う機関の倫理委員会へ申請し、そこで許可がおりると、国に、臨床試験開始を求めた申請を行う。国の専門機関が、その申請へ許可を出してはじめてヒトを対象とした臨床試験が開始される。
 ここまで書くと明らかなように、臨床試験を行う機関の倫理委員会、また、最終的な臨床試験開始の許可をだす国の判断は相当重大な責任を持つ。この段階での審査がしっかりと行われないと、「臨床試験」でなく、「人体実験」となってしまうのである。
 これらの機関では、「人体実験」とならないために、倫理的に正当化出来る治療法なのか、その薬・治療法はヒトに対する毒性の可能性は限りなく低いのか、ヒトに対して治療効果の可能性は高いのか、もっと安全で効果的な代替薬・治療法は存在しないのか、といったことを含めて、客観的データに基づいた多面的な審査を慎重に行う必要がある。
 例えば、加齢黄斑変性の臨床試験についていえば、現段階では不透明なiPS細胞のガン化のリスクを冒してでも治療することが倫理的に正当化できるか。また、すでに米国バイオ企業アドバンスト・セル・テクノロジー社が2011年以来、胚性幹細胞(ES細胞)により作成した網膜細胞の移植による臨床試験を始めており、目がほとんど見えない患者の視力を回復させることに成功したとの報告もなされている。この結果は安全性を確認するための試験の一環として出てきた予備的なデータに基づく報告であるので、今後のさらなる臨床試験の結果を見守る必要があるが、現段階で、ES細胞よりも、iPS細胞を使うことが多面的にみて正当化できるか。これらを含めた多くの倫理的、また、実質的な問題を審査機関は慎重に審議しなければならない。
 筆者のこれまでの観察によると、どうも「ノーベル賞をとった研究なのだから、きっと素晴らしい治療方法で必ずや効くに違いない」という支配的国民感情が存在し、それをマスコミが煽っているような気がしてならない。また、「これはオールジャパンのプロジェクトなので、なにがなんでも成功させ日本がiPS細胞を用いた再生治療で世界一になる必要がある」という尋常でない強迫観念のようなものさえ感じられる。
 我々は、「成熟した細胞を初期化することが可能であることを発見した」ことに対すノーベル賞がガードン氏と山中さんに授与されたのであって、iPS細胞を用いた再生治療に対して与えられたものでは無いということをしっかり理解する必要がある。
 この辺をふまえて、これから、次から次へと出てくるであろう、iPS細胞を用いたさまざまなヒト疾患治療のための臨床試験の申請を、冷静かつ客観的に、また慎重に(しかし、本当に必要と認められる場合には“無駄に慎重”になるのではなく、治療を待ち望んでいる患者さんたちのためにも“速やかに”)審査して頂きたいと、筆者は強く願う。