2013年12月11日水曜日

2013年12月11日

僕の2013611日付けの朝日新聞ウエブロンザ論考です。すでに時効ですので朝日新聞社の許可を得てここのコピー致します。


「大学入試センター試験」の廃止を歓迎する
 政府の教育再生実行会議(座長=鎌田薫・早稲田大学総長)が大学入試センター試験を5年後をメドに廃止し、高校在学中に複数回受けられる全国共通の「達成度テスト」(仮称)を創設して大学入試に活用する検討を始めた。筆者は共通一次と呼ばれていた30年以上前から、こういう試験に大反対であったので、「やっと」という気持ちが強い。高校在学中に複数回受けられ、受けた中で最も良い成績を受験したい大学へ提出するという方式は、米国で90年間弱続いているSAT(Scholastic Assessment Test)とほぼ同じである。そこで、米国の大学で長年、教育研究に携わってきた経験をもとに、米国のSATとその大学入試への活用方法を紹介すると同時に、日本で始まるであろう「達成度テスト」(今流行の言い方でいえば「日本版SAT」)への筆者の意見を述べたい。
 SATCritical Reading, Mathematics, Writingの3つのセクションからなる。これらは、日本語で言い換えればそれぞれ、読解力、算数、作文である。毎年7回実施されている。その中で受けたいときに受けて、最もよいスコアを受験したい大学へ提出する。全米の総受験者の正解率の中間がだいたい6割〜7割くらいになる。つまり、基礎的な問題ばかりで、まじめに勉強している高校生なら8〜9割は確実に正解できるレベルのテストである。したがって、日本で今まで行われてきたセンター試験のように1点を争うようなテストとは根本的に違う。基礎的な学力を身につけているか否かを判断するための「ひとつの材料」である。
米国の大学入試では、SATのスコアはひとつの指標に過ぎない。高校の成績、これまでの活動(ボランティア活動、自由研究、コンテストなどの受賞歴、スポーツなど)、複数の推薦状、小論文、面接、などを総合して、それぞれの大学がそれぞれの大学の教育方針や運営方針に基づいて適切と判断された学生を合格にする。極端にいえば、大学への合否は、大学の「独断と偏見」により判断される。
 「日本版SAT」のセンター試験とのもっとも大きな違いは、年に複数回受験することができ、その中で最も良いスコアを大学へ提出できる点だと筆者は考える。これは、とても良いことである。これまで、中・高・大、そして就職において「一発勝負」、そして一度落ちこぼれたら二度と這い上がれないようになっている(としか思えない)日本社会においては、大改革であることは間違いない。とても良い方向転換である。一方、「日本版SAT」が日本に定着するにはいくつかのハードルをクリアする必要があると考える。

■   「日本版SAT」は入学試験ではなく、学力検査であるという大前提を認識し理解する。
たとえ複数回受けられるようになったとしても、「1点でも良い点をとる」という指導を高校、予備校、親が行うと何も変わらない。これを防ぐには、大学側が「100点満点で60点だと難しいですが、80点であろうと85点だろうが合否にはまったく関係ないですよ」ということを公言することが重要であろう。

■   各大学がそれぞれの大学の独自の教育方針、運営方針を自由に打ち出し、それらに適した学生を選ぶことのできる独自の選抜方法を施行する。
これは大学にとって大きな負担となるが、「人」「将来の人材」を選ぶのであるから、時間と労力をかけて当然である。大学の最重要課題である。これを全ての教員に押し付け、教員が「また雑用が増えた」と愚痴をこぼすことのないように、「リクルーター」教員のような専門職を各大学でつくり組織化して取り組むべきである。

■   「公平性が保たれるのか」といった日本で定番の苦言を徹底的に排除する。
「日本版SAT」に対しての最も大きな反対意見のひとつに「公平性が保たれるのか」というのがあると報道されている。これは、高校の施設が試験会場となることや、複数回受験できることに対する意見であろうと想像するが、いい加減、何かと言えば「公平性」という言葉に執着する国民性からそろそろ脱皮するときではなかろうか。「公平性=ひとつの物差し」ということに気づいてもらいたい。現代を生き抜くには多様性が必要不可欠である。「公平性=ひとつの物差し」はそのような時代に逆行する。ひとりの人間にとっての「不公平」は他人にとっては「公平」である可能性があるということにそろそろ気づいてほしい。それを大前提に社会をつくっていくためには、ある意味「不公平な受験制度」は必要ではないかと筆者は考える。

 筆者は「大学入試センター試験」の廃止と「日本版SAT」の創設に大賛成である。しかし、以上の点がクリアされないまま「日本版SAT」が開始されると、結局何も変わらず、表面的な入試の方法が変わっただけに終わってしまう。「出願者の個性や適性を多面的に評価して合格者を決める」として始まったAO(アドミッション・オフィス)入試もいまだに定着せず、逆に廃止の方向に向かっている大学が多くある。「日本版SAT」もAO入試の二の舞になりはしないか。筆者はそれを恐れる。日本にとって、大学改革はきわめて重要な課題だ。是非、入試が改革され、真の人材教育が日本でも始まることを痛切に望む。