2014年8月3日【2014/7/17朝日新聞Webronza論考公開】
公開から二週間以上たったので、ここにコピーを公開します。
ヒトiPS細胞は安全性に問題あり?
再生医療とは、だめになった組織や臓器を再生させる種々の医療行為のことを包括的に指す。そのひとつが、さまざまな細胞に分化可能な幹細胞(多能性幹細胞)を培養容器の中で(つまり体外で)増やし、目的の組織や臓器を構成する細胞へと分化させ、できたものを移植する方法だ。この方法を効率的に、しかも安全に成功させるためには、効率良く分化して安全性の高い多能性幹細胞が必要不可欠である。
多能性があるかどうかは比較的容易に判断できるが、安全性については見極めが難しい。多能性幹細胞には、山中伸弥さんが開発したiPS細胞のほか、胚性幹(ES)細胞があり、さらにこれは作り方によってNTES細胞とIVFES細胞の2種類に分かれる。今月初旬、ネイチャー誌に安全性を見るためにiPS細胞とNT ES細胞を「直接対決」させたという報告が出た(原題“Abnormalities in human pluripotent cells due to reprogramming
mechanisms”, Nature 511, 177–183, 2014 doi:10.1038/nature13551)。安全性に関わるひとつの指標である遺伝子情報の正常性という点でみると、NT ES細胞がiPS細胞を上回っていた。iPS 細胞は、異常な遺伝子情報を多くもっていたのである。今回の論考では、この研究報告を紹介するとともに、今後の課題などについて筆者の意見をまとめる。
山中伸弥さんが2006年にマウスで、翌2007年にヒトの細胞で作成に成功したiPS細胞(人工多能性幹細胞)は、皮膚などの体細胞へ「山中4因子」とよばれる4つの遺伝子を導入してつくる。こうすることで、体細胞を未分化で多能性をもった幹細胞へと変化させる(これを初期化とよぶ)のである(図上段)。
NT ES細胞とは、体細胞から核を取り出し、それを卵子の核と取り替える(この操作を体細胞核移植:Somatic Cell Nuclear Transfer (SCNT)とよぶ)ことにより作成される(図中段)。この操作で、体細胞由来の核は、卵子が胚へ成長する過程で、未分化の状態へもどる(初期化)。そして、この胚から、初期化された核をもった胚性(つまり胚由来)幹細胞(ES細胞)が調整される。このような方法で作成された胚性幹細胞をNT(Nuclear Transfer: 核移植) ES細胞とよぶ。
一方、IVF ES細胞は、卵子と精子を試験管内で人工授精(In Vitro
Fertilization: IVF)させ、その受精卵から育った胚からES細胞を調整することで作成される(図下段)。
これら3種類のうち、もっとも安全な細胞は、初期化という人為的操作がないIVF ES細胞であると考えられている。しかし、IVF ES細胞は、精子と卵子を試験管内で人工受精させてつくるため、患者由来ではなく、他人の受精卵由来の細胞となり、拒絶反応などの危険性が高くなる。したがって、再生医療には、拒絶反応のない、患者由来の多能性幹細胞がもっとも望ましい。そこで、患者由来の多能性幹細胞であるiPS細胞とNT ES細胞に期待がかけられている。
ネイチャー論文によると、まず、同一のヒト由来の体細胞を使ってiPS細胞とNT ES細胞をつくった。両者は、もともとは同一の遺伝子情報をもっていたことになる。
このようにして作成されたiPS細胞とNT ES細胞の持っている遺伝子情報を網羅的に解析し、もっとも正常な遺伝子情報をもつはずのIVF ES細胞と比較した。その結果、驚いたことに、iPS細胞とNT ES細胞とでは、遺伝子情報が大きく異なっていた。また、NT ES細胞の遺伝子情報は、IVF ES細胞のそれに比較的近いものをもっていた一方、iPS細胞は、IVF ES細胞のそれと比較した結果、多くの異常な遺伝子情報をもっていることが明らかになった。さらに、iPS細胞が何故このように多くの異常な遺伝子情報を持つようになったかを調べたところ、この異常が、ヒト由来の体細胞に「山中4因子」を発現させるという操作自体に由来することが分かった。
この論文の結果によると、将来的にヒトの再生医療への応用を考えた場合、iPS細胞よりも、NT ES細胞を使用したほうが、より安全であるという結論に達する。本当にそうであろうか。現実は、そんなに単純ではない。筆者の意見を以下にまとめる。
iPS細胞をNT ES細胞と比較した場合、iPS細胞の方がNT ES細胞より遺伝子情報の異常が多いことは確かであるが、それらの異常が、実際のヒトへの臨床応用をした場合に、安全性(短期、長期の両方レベルで)に問題が出てくるのかという点に関しては、現時点では不明である。これらの遺伝子情報の異常のいくつかは、ヒトでの安全性ということに関しては、実際問題としてまったく影響がないことは、十分考えられる。つまり、培養容器中(生体外)での遺伝子情報の異常なふるまいが、移植後の生体内においては他の正常な遺伝子群において機能的に補足されたりすることによって、生体の機能という観点からは悪影響をおよぼさないことも考えられるということだ。また、培養容器中での細胞レベルでの遺伝子情報の異常なふるまいは、身体全体の正常な機能へはほとんど影響をおよぼさない可能性もある。この点に関しては、これからのiPS細胞を使用した臨床試験によって答えが出てくるであろうと考えられる。
一方、多能性幹細胞の作成という観点からすると、iPS細胞の方が、核移植という技術の熟練を要するNT ES細胞よりは、格段に容易に、また大量に作成できる。すなわち、もっとも望ましい多能性幹細胞は、iPS細胞のように、容易で大量に作成でき、さらには、ヒトへの応用に関しての安全性に問題がない範囲内での遺伝子情報の異常に抑えることのできる技術の開発であろう。
そのような、技術が、iPS細胞の現在の作成技術をさらに洗練することで生まれるのか、あるいは、NT ES細胞作成技術をさらに効率化することで生まれるのか、または、全く新しい方法が将来生まれてくるのかは、現時点では分からない。それに対する答えを得るためにも、筆者は、常識にとらわれない独創的な基礎技術研究のさらなる進展に期待したい。少なくとも、今回の論文の結果からiPS 細胞を見限る必要はまったくない。