2009年12月10日木曜日

2009年12月9日


明日10日から休暇をとってフィリピン(マニラ)に三日間いって来る。中学のときのバスケット部のコーチが今マニラに住んで色々と世の中を良くするための活動をやっておられる。今年、80才である。僕は中学・高校と一緒にバスケットをやった友人と二人でマニラに行って先生に会って、マニラでの先生の活動を通して人生の勉強をしてこようと思う。

今日は僕の研究の原点について書いてみよう。
僕は気が付いたら67歳くらいにはすでに研究をしていた。酵母を培養してたり、川の水の組成を化学的に解析したり、ショウジョウバエのライフサイクルや突然変異の研究をしたり、川や海の微生物を顕微鏡で観察したり、電子回路を作ったり、ロボットを作成したり、いろんな実験、研究を毎日していた。小学生の時、自分の部屋、家の台所、ベランダは僕の研究資料、材料で溢れていた。解剖した魚、酵母の培養シャーレは台所にある冷蔵庫の中に溢れてたし、寒天培地を台所の鍋を使って作っていたし、ショウジョウバエのスクリーニング用の培地の入った牛乳瓶がベランダに何十本と並んでいた。自分の部屋には顕微鏡、化学実験用のガラス・プラスチック器具、自家製サーキットボードやその部品、等がところ狭しと散らかっていた。毎日、自分で自然を観察し、本を読んで、研究プロジェクトを自分で考え、実験プランを自分でたてて、実験を自分一人で行い、結果を自分でまとめていた。自分でまとめたものを父や、近所にいた広島大学医学部のお兄さんに、頻繁に見せにいって感想を聞いたり、看護婦をやってるおばさんが家に遊びにくると、それまでやった研究結果を見せて感想を聞いたりしていた。全国科学研究コンクールみたいなところで研究発表して賞をもらったこともある。実験に必要な器具は父がよくどこからか調達してきてくれた。母も、解剖した魚や、酵母の培養されているシャーレや寒天培地が台所や冷蔵庫の中に大量にあっても、一言も悲鳴をあげたことは無かった。両親に感謝である。僕がお腹がいたくて学校を休むと、クラスの皆に佐藤は理科中毒で休んだとよく言われてた。

僕が何をきっかけに研究に興味をもったのかは未だに不明である。両親に聞いても、いつの間にかという答えが返ってくるだけである。僕は小さいころから沢山、本を読んでいたし、本ならいくらでも欲しいだけ両親は買ってくれた。また、地元の図書館には頻繁にいって本を読んだり、調べものをするのが大好きだった。図書館という言葉の響きが好きだったし、広島市立図書館も県立図書館も沢山の木に囲まれた広い公園の中にあり、雰囲気がとても好きだった。今でも、本の匂いが大好きである。だから、たぶん読んだ本の何かがきっかけで研究を自分で始めたのかも知れない。

また、小学校のころから、日本ではなくヨーロッパかアメリカで研究しなければいけないという気持ちがいつの間にか出来上がっていた。たぶん、1970年代の貧乏でガチガチの日本の研究体制についてをどこかで読んだか聞いて、自分なりに日本で研究していたらヨボヨボの年寄りになるまで独立して研究出来ないだろうと考え、それなら海外でと考えたのだと思う。僕はその後、大学院、ポスドク、助教授、准教授、教授と24年以上アメリカ合衆国で過ごすことになった。という訳で、僕の研究の原点は自分が小学生だったころに遡るのかなと思う。