僕は、大学(筑波大学)の学部4年生の時に、最初の論文を書いて(初稿を自分で英語で書いて、Figures も自分でつくって、先生のところへもっていった)、First Authorで発表した。その時に、大学院、またその後の研究人生、をアメリカで送るために、アメリカ人に覚えて貰いやすい名前という事で、Thomas N. Sato (Tom Sato)という名で、論文を出した。それ以来、ずっとThomas N. Satoで論文を出してきた。しかも英語がほとんどネイティブと変わらないぐらい流暢なので(cockyな発言)、日本人、アメリカ人、ヨーロッパ人ら多 くの研究者たちから、僕は日系アメリカ人だと思われていた。という訳で、僕のラボには日本人の学生やポスドクは歴史的に少なかった(アメリカで研究してい る日本人がPIのラボには日本人のポスドクが多い)。三つめの理由。
このような状況だから、僕のラボから羽ばたいていく、学生、ポスドクは、ほとんどが日本人ではなく、日本以外(特にアメリカやヨーロッパ)のと ころで、その後活躍する。だから、僕は自分が育てた学生、ポスドクが、将来日本のリーダーになり、日本を世界一の国(いろんな意味で)にしていくことに貢 献する、といったシナリオに飢えていた。
だから、日本に帰って来た。日本のラボだと、日本人の学生、日本人のポスドクを沢山育てて、僕のラボを巣立った日本人の若い人たちが、将来日本 のリーダーとして、世界中で活躍する、といった僕の夢が叶う可能性が高くなるのでは、と思った。だから、アメリカでのいろんな贅沢な研究生活や誘惑を棄て て、日本に帰って来た。
このような状況だから、僕のラボから羽ばたいていく、学生、ポスドクは、ほとんどが日本人ではなく、日本以外(特にアメリカやヨーロッパ)のと ころで、その後活躍する。だから、僕は自分が育てた学生、ポスドクが、将来日本のリーダーになり、日本を世界一の国(いろんな意味で)にしていくことに貢 献する、といったシナリオに飢えていた。
だから、日本に帰って来た。日本のラボだと、日本人の学生、日本人のポスドクを沢山育てて、僕のラボを巣立った日本人の若い人たちが、将来日本 のリーダーとして、世界中で活躍する、といった僕の夢が叶う可能性が高くなるのでは、と思った。だから、アメリカでのいろんな贅沢な研究生活や誘惑を棄て て、日本に帰って来た。