広島学院はカトリック系の学校なので、英語を母国語とする先生が多くおられた。アメリカ人、イギリス人、アイルランド人、フィリピン人など。だから、学校でも普通に英語を話す機会が多かった。また、僕は中学3年~高校2年までの三年間、ほぼ毎週、英語の文章をノートに2~3ページ書いて、当時おられたアメリカ人の先生に提出して添削してもらっていた。これは、義務でもなんでもなく、僕が自主的にしたいといったら、このアメリカ人の先生は快く引き受けて下さった。約3年間毎週、辛抱強く添削して下さった。
また、広島は当時ABCといってアメリカと日本が共同出資して運営していた、放射線研究所があって、家の近くにあった。また、広島学院にはアメリカ人の神父さんが何人かおられることもあり、ABCにアメリカから来て研究している研究者またその家族と知り合いになる機会が多かった。僕は中学2年生の時、そのなかでも、アメリカのUniversity of Rochesterから来ていた有名な(当時は有名だ知らなかったが、後にかなり高名な研究者だということを知った)統計数理学の教授であるCharles Odoroffという研究者とその家族と知り合いになった。とくにそこの長男のMark とは同い年なので、頻繁に一緒に遊んだ。だから、日本に居ながら、僕にとっては英語を読む、聞く、書く、喋るは日常の一部だった。
(明日に続く)